みんなが知っているのとはちょっと違う「女性の発達障害」
私は50歳で発達障害の診断をうけました。ADHD(注意欠陥/多動性障害)、そしてASD(自閉症スペクトラム障害)の傾向も多少みられるという診断で、すぐにADHDの治療薬を使い始めました。
おそらく、今更なぜ発達障害の診断なんて必要なの?と思われる年齢だと思います。しかし私自身は、診断を受けたことでとても楽になりました。いままでのたくさんの困ってきたことの理由と改善方法が、少しずつわかってきたからです。そしてADHDの治療薬も合っているようで、行動に落ち着きがでて生きやすくなったと感じています。
発達障害は幼少期にわかるケースが多いのですが、特に女性は現在の診断基準では違った見え方がすることもあり、幼少期に気が付いてもらえない場合があるようです。しかしそのまま成長してしまうと、周りの人と同じようには出来ないことが多くあり、家族や友人との人間関係がうまく築けず、自分を責め続けて二次障害と言われるウツなどの心の病を発症する原因になってしまいます。私が発達障害の診断を受けたのは、長いこと良くならない自分のウツ症状や不眠が、この二次障害である可能性を考えたからです。
発達障害は「害」という言葉のネガティブなイメージを避けるために、「発達障がい」または「神経発達症」などへ呼び方が変化していますが、ここでは現在一般的に知られている「発達障害」という言葉を使います。
第一回の記事では、検査や診断までの経緯をお伝えしました。
第二回では私が受けた検査や診断までに感じたこと、診断の結果をご紹介しました。
第三回では診断を受けずに過ごした幼稚園から小学性の頃のことをご紹介しました。
今回は私の人格がすっかりできあがった状態だと感じる、中学生の頃のことをお伝えします。私には家族関係でのPTSDもあり全てが発達障害から来る特徴とは言えませんが、参考になると思います。
ざっくり
診断を受けずに過ごした中学生活
小学生までは人と仲良くしたい気持ちが強いのに上手く人間関係が作れないこと、一生懸命に授業に参加しているつもりでもついていけず、宿題やテスト勉強をしているつもりでも成績の悪い教科が多いこと、コミュニケーションが取れない家族との関係に苦しんでいました。
家族関係と親友を亡くしたPTSDが原因のこともあると思いますが、小学校五年生の時には希死念慮(自殺したい気持ち)をハッキリと持っていました。この頃には、物事は自分が期待する通りになることは少ないと諦める方向へ気持ちを切り替えるようになっていました。
だから中学生になる頃には、「自分は周りの女の子とは違う」ということを受け入て「個性的」という前向きな解釈をするしかありませんでした。小学生の頃から人形よりもラジコンを欲しがり、白いレースよりも編み上げの黒革のレースブーツを気に入り、ドラマや映画は海外のものが好き、お笑い番組は早くて言葉が聞き取れないから嫌い、音楽は米軍放送のラジオでかかる海外のロックが大好き。乗り物や重機に強い興味を持ち、少女漫画よりも戦闘ものが好き、植物を手入れしたり工具を使うのが大好きでした。動物が大好きで飼い犬と会話をしていたし、妄想の友達のような人も居たと思います。明らかに周りの女の子とは好きなものや興味を持つものが違いました。
でも今振り返ると、自分の好きなものがとても早い段階で出来上がっていて今もほとんど変わらないことに驚きます。その後私は大型バイクに乗って好きな服装で出勤し、工具を使った機械いじりもできて、気楽な一人旅も海外旅行にも行き、好きなものが似ている気の合う友達も出来て、自分の好きな世界を満喫できました。ちなみに不注意での事故は、10年以上乗っても起こした事がありませんでした。自分の事を過信しないで、慎重に運転するように気をつけていました。
女性の発達障害の人には、一般的に男性的なものとされる服装などに心地よさを感じることが多々あるようです。私もずっと趣味嗜好や考え方に性別の違いや「女の子らしさ」は考えず、一般的に言われる「〜でなくてはいけない」とか「こうあるべき」という事よりも快適さや自分らしさを優先する傾向が強いです。他者に対してもそのような比較的フラットな視点で見ていると思います。
発達障害のある人は比較的ハッキリと好き嫌いをハッキリと感じ取るので、それを良い方向に向けられたら若い段階で自分に合った道へ進みやすいと思います。
つまり嫌なことや苦手なことには強く反応して、受け入れない面もあります。もしかしたら私は好きなことよりも嫌だと感じることの方が、今でも自分の強い原動力になっているのかもしれません。特に物事の辻褄が合わないことにはとても敏感で、たとえ法律や校則であっても「おかしい」と思うことはその必要性を理解できないと受け入れません。中学生の頃には、特に不条理なことを言う大人への不満が常にありました。
早く自分がこの子供の頃の気持ちを忘れずに純粋なまま大人になりたい、早く勉強や家族から自由になりたい、ただそれだけを楽しみにしていました。学生生活を楽しむとか、今を楽しもうという気持ちは微塵もありませんでした。私の場合は家族関係の影響も強く、たとえ家族であっても自分の期待通りになることは少ないと理解して引かないと暴力から身を守れないことも多かったので、人とは距離を取りながら自分の事を正面から解らせることを諦めやすい傾向が強いと思います。
吹奏楽部へ入ることを禁止され、楽しみのない中学校生活
私は幼少期から長いこと音楽をやってきたので、中学校でも吹奏楽部に入ることは既定路線だと思い込んでいました。しかし音楽に夢中になると勉強をしないと母に言われ、吹奏楽部に入ることを禁止されてしまいました。
小学校のマーチングバンドで一緒だった人のほとんどは、中学の吹奏楽部へ入りました。自分が習っていたフルートを持って校内を歩いている元仲間をみると悲しくなり、隠れて泣くこともありました。音楽に関しては誰よりも出来てきた代わりに、それ以外の事には全く自信がありませんでした。妥協して入った美術部も、色覚異常があるために苦労してすぐにやめてしまいました。卒業するまで自分の居場所がないと感じていました。
同じ小学校から通う人が中心の学校だったので、同級生たちは私が吹奏楽部へ入らない理由は音楽学校へ進むためだと言っていました。校内の合唱コンクールがあるときは、必ず指揮者かピアノに指名されていました。小学校ではマーチングバンドの一番目立つポジションで朝礼のときも全校生徒の前で校歌の指揮をしていましたから、「私=音楽」のイメージが強かったのだと思います。
音楽学校への進学は実際に検討して、中学二年生の時にピアノの先生と母の間で具体的に話しがありました。しかし学校の勉強と音楽を同じように頑張る必要があることを知り、さらに母が受験先の学校の教授に個人指導を受けるためにはお金がとてもかかることを言い出して絶対に落ちてはならないという圧力をかけるようになってきました。私にはやりきる自信がなくて、音楽学校の受験は諦めました。中学受験で親の見栄に答えられずに失敗し、酷い態度をされた事をまた繰り返したくはありませんでした。二歳からピアノを弾いて絶対音感があると言われて音楽が大好きでも、譜面を覚えたり音楽理論の本を読んで覚えられないことも自信が持てない大きな理由でした。
反抗心よりも、とにかく辻褄が合わないことに敏感な中学時代
小学生の頃まではお釣りを間違えて渡されても言えないような子供でしたが、中学生になると自分の考えや意見がはっきりと言動に現れるようになりました。
中学一年生の時に学校の先生と世間話をしている時に、「あなたは考え方が破壊的」といわれてその根拠を問いただしたり、二年生の時に同級生の知り合いの暴走族の車で登校することを怒られて、友達の家族の車での登校が良いのに何故暴走族がダメなのかを理解できず謝らなかったり、大雨の登校中に捨て猫を拾って隠したのがバレて校内放送で呼び出されて、校長を直接説得して飼い主を探すまで責任を取ることを納得させたりしてました。
男性教師から授業中に、椅子を投げつけられることもありました。教師が机を蹴飛ばし椅子を投げ飛ばした原因は、私が中学近くのバス停で友達と待ち合わせをして登校することを授業中に注意した事がきっかけでした。待ち合わせがダメだと言う理由が、「一つ先のバス停近くに不良の多い高校があるから」でしたが、友達と待ち合わせをして登校をしてもその高校の人と会うことは無い場所でした。だから客観的にみても自分が悪いことをしていないと確信があり、どんなに怒られても謝りませんでした。話を聞いていた同じクラスの人達も、私が椅子を投げつけられるようなことはしていないと言って後で慰めてくれ、普段会話をしたことのない人が「椅子に俺が当たりそうだったから怪我してあげれば良かったね」と言ってくれて心が救われました。
この時も私には反抗心から来る怒りの感情は無く、理解できない理由で怒っているのを「なんだコレ?」と思いながら冷静にその教師の騒ぐ様子を見ているだけでした。なにしろ怒って冷静さを失いやすい母とともに成長してきたので、そのような状態の人に慣れていました。ただただ不条理というか理解できないものでしたし、私に理解させたい事があるのならば感情的にならず、納得がいく言葉で冷静に客観的な理由で説明して欲しかったのです。
その後その教師は、私が親に伝えて学校に苦情が来るのを恐れて早々に母へ謝罪の電話をし、この騒動以降のテストの際に不正解の問題を正解にしたり、他の先生へ誰でも良いような用事を頼んで呼び出したりしてきましたが、私は無視をし続けて一言もその先生とは会話をかわさずに卒業しました。
コミュニケーションが欠如した家族関係
私は四人家族でしたが母といる時間が一番長く一番強烈な人格だったので、それ以外の家族とのことは大きな問題では無いと感じていました。中学生の頃のコミュニケーションの成り立っていない母子関係が、とてもわかりやすいエピソードがあります。
いつものように母親が怒った時に「うるさい!いいから黙れ!」といわれ、それから「いただきます」「ごちそうさま」「ただいま」以外は家では声を出さないようにしたことがありました。とにかく母に怒られないように機嫌を伺いながら、言われた言葉の通りにしておけば多少は言葉や身体への暴力から自分の身を守ることが出来そうだから考えだした方法でした。
実際に母は会話をしていないことに三ヶ月ほど気が付かず、学校の担任から私の様子がおかしいと電話が来て初めて知ったようでした。それほどにコミュニケーションが一方的な家庭でした。私の返事や意見は母には必要なく、自分の言いたいことが伝わってその通りにしていれば満足だったようです。学校から電話があっても、その事を伝えられる以外には話し合いも何もありませんでした。
晩年母は、私には反抗期がなかったと言っていました。つまりこの頃に特別な反抗をしていたという訳ではなかったのだと思います。
私は言葉で言われれば理解力は高いと思いますが、機嫌の悪い人の態度から相手の欲することを理解することは特に難しいです。人がいま負の感情をもっているかどうかにはとても敏感なので、自分の身を守るために関わらないようにする傾向は育った環境から来ているのかもしれません。
成人してからは様々な場面で人間関係の経験を重ねることが出来たので、少しずつ場や人に応じた振る舞いが出来るようになりましたが、言葉通りに受け取ってしまう面は今もたいして変わらないと思います。人が冷静で無くなって言葉で理解し合えない場面はとても苦手なので、感情的になりやすい人間は極力避けています。
高校受験のための勉強のみを強いられた中学時代
母からは音楽学校の受験をしないのならば、高校は私立の学校へ行くように言われました。自分の行きたい学校は他にあり一応伝えましたが、それが通る関係ではありませんでした。
高校受験では自分の思いは諦め、一生懸命にやりました。他に熱中することは音楽を聴くだけで、特に夢や目標もなかったからです。受験する学校に必要な教科は、塾や家庭教師について宿題と問題集、三年生からは過去問題集を繰り返しこなすうちに、親が決めた学校を受験するために必要な教科だけは下の方だった成績が急に上位になりました。各教科の先生たちも「ここまで成績が急に上がる子は初めて」と言っていました。金持ちだから出来たことだと思われそうですが、内情は億に近い多額の借金をしている家庭でした。ただし人から見える部分には、お金をかける両親でした。
受験前の数ヶ月は、睡眠時間が2時間のこともありました。そこまで頑張ったのは、中学受験での挫折を打ち消すためだと思います。しかしそれ以上に発達障害の特性上、本気になると過集中になって加減をできず夢中になった状態になっていたと思います。今でも私はやるべきことや目標がハッキリ理解できて興味を持つと高い集中力を発揮しますが、その代わりに今でも食事も忘れて生活がままならなくなります。
両親が決めた第一志望校は高校からは30名ほどしか取らない中高一貫校で、付属の大学がある女子校でした。私の希望は公立の共学で、自分の学力に合った学校でしたが受けさせてもらえませんでした。親が決めたのは第三希望まで私立の女子校で、念の為に願書を出した公立高校は校区で二番目に学力が高い受験校でした。自分のもともとの学力では難しい学校ばかりでした。
実際に受験の時に第一志望の校内を見た時も、自分に合わないことが明確な校風でした。校内には火鉢があって壁には「良妻賢母」と貼られ、校訓は「恥を知れ」です。掃除は三角巾に割烹着を着て行い、指定の革カバンに入らない荷物は風呂敷で持ち歩きます。授業の始まりと終わりのの挨拶は、「ごきげんよう」でした。宿題の多さは都内でも有名な学校で勉強も大変だし、何よりも中学から出来上がった女子のコミュニティに後から入るなんてことは、自分から人の輪に入れない私にはまず無理なことでした。後々なぜ第一志望の学校を受けさせたかったのかと聞いたら、セーラー服が可愛いかったからだと言われて愕然としました。
受験当日は全てやり切った感覚と落ちても良いという気持ちもあって、とても冷静で落ち着いていました。周りは頭が良さそうな、真面目なタイプの女の子ばかりでした。試験内容は自分でもびっくりするほど簡単で、以前解いたことのあるような問題ばかりでした。それはおそらく過去の試験問題を何度も繰り返し解いて、その学校の出題傾向がしっかりと身についていたのだと思います。第二志望の高校も同じように勉強したので、第一志望も第二志望の女子校もあっけなく合格しました。合格した時の点数はトップクラスだったそうです。
親が怖くてわざと落ちるといった大胆なことをする勇気はなかったのですが、合格発表後に何度かその学校へ行きたくない事を母に言いました。しかしせっかく合格した学校だからと説得され、行くことを諦めるしかありませんでした。
中学生時代まとめ
私の中学時代は部活や友達と遊ぶことや恋愛を楽しんで充実した人からすれば、とてもつまらないものでした。
この記事を書く現在、私がADHDの治療薬「ストラテラ(アトモキセチン)」の使用を開始して半年ほどが経過しました。もう吐き気もなく、副反応は感じません。最初は落ち着いてきたことを喜び、次は段々と上手く出来ないことや苦手なことが多いことがハッキリと見えてきて、とても混乱する時期を迎えました。
混乱する時期を越えてたどり着いた今は、「自分が苦手なことは無理せずに得意な人に助けてもらおう」「自分は自分のペースで出来ることをしよう」という状態です。
私が特に苦手なことはマルチタスクのようです。マルチタスクとは複数の事を同時に行うこと、つまり私の場合は一度にやることが二個までならなんとか出来るけれど、三個になると全てが出来なくなってフリーズしてしまいます。これに関しては、落ち着いて優先順位を考えて慌てずに一つ一つを自分のペースでこなすことを心がけ、無理をしないことで対処しています。マルチタスクが発生する場所や環境に慣れると、多少は融通が利いてストレスも少なく行動できるようになることにも気が付きました。
さらに文字を見落としやすいこと、文章をしっかり読めないこともハッキリわかりました。携帯やパソコン、印刷の文字よりも、自分で手書きをしたものなら多少は目に付きやすいです。診断以前から続けていることですが、常に手書きの手帳を持ち歩き、やる事や買うものを忘れないようにメモをしています。長い文章を読む場合は、小さくても声に出して読むと多少は頭に入りやすいです。
思い返せば成人後に一般社会で20年近くも仕事ができたのは、自分のうっかりミスをしやすい特性をよくわかっていて、正直に周りに伝えていたからだと思います。細かなことが得意な人にチェックしてもらえるようにするなど、自分一人で抱え込まないようにしていました。最初から工夫が出来ていたのではなく、徐々に自分のやりやすさを身につけていました。その代わりに自分が得意な事で、お返し出来ていたのだと思います。
そして最近は人とのコミュニケーションの取り方も、少しずつ変わってきました。
発達障害の勉強をしていると、診断を受けていない一般の人の多くもざっくりと分ければADHD的なところやASD的な要素といわれる特性が強めに出た人が多いと感じています。忘れ物が多かったり、活動的で細かいところに目が行き届かなかったり、人との会話やコミュニケーションが苦手で言葉が足りなかったり、人の話しを注意深く聞いたり覚えるのが苦手だったり、興味のない会話や文章が頭に入らなかったり、時間の管理や部屋の整頓が苦手だったり、どんなに注意深くやってもミスをしたり、ルーティンを崩されるのを嫌ったり、他人にはどうでも良いと思われる細かい部分にこだわったり。
周りの人にも生まれつきの特性で、得手不得手や強いこだわりが個々に強く出ているとすればそれが個性であり、もし自分の予想と違う反応をされたら「この人の苦手なことは何か?得意なコミュニケーション方法は何か?」を考えてみるようになりました。無理に自分のやり方で解らせることよりも、その人に合った伝え方やコミュニケーションの方法を先に考えるようになりました。
文字で読んだほうがわかりやすい人、会話で聞いたほうが理解しやすい人、情報量が多いと何も頭に入らなくなる人、パソコンの画面の文字よりも手書きの紙のほうが解りやすい人…それぞれに合ったコミュニケーションの方法があり、それを考えてコミュニケーションを取ってみても自分が困り疲弊する程の人であれば、距離を取って自分を守る形を取るようになりました。
発達障害があっても無くても苦手なことは周りに助けてもらい、得意なことでお返しをし合うのは自然なことだと思います。これが正しいのかはまだわかりませんが、現在はこのような考えの状態です。
もし私が自分のやり方にこだわって押し付けることが減ったのであれば、これはもしかしたら治療薬で冷静に周りも見る余裕ができたこと、そして自分のことを理解するために勉強している事の成果かもしれません。
では次回からは診断を受けずに過ごした高校生から一般の会社で働いていた成人期でどのような特性や悩みがあったのか、また男性と女性の発達障害の違い、大人になってから診断を受けることのメリット・デメリット、発達障害の二次障害についても私の経験をもとに紹介していく予定です。
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