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2024/12/10:フリーペーパーvol.105発刊!

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」第三回

みんなが知っているのとはちょっと違う「女性の発達障害」  

先日、私は50歳で発達障害の診断をうけました。ADHD(注意欠陥/多動性障害)、そしてASD(自閉症スペクトラム障害)の傾向も多少みられるという診断で、すぐにADHDの治療薬を使い始めました。おそらく、今更なぜ発達障害の診断なんて必要なの?と思われる年齢だと思います。しかし私自身は、診断を受けたことでとても楽になりました。いままでのたくさんの困ってきたことの理由と改善方法が、少しずつわかってきたからです。そしてADHDの治療薬も合っているようで、行動に落ち着きがでて生きやすくなったと感じています。
発達障害は幼少期にわかるケースが多いのですが、特に女性は現在の診断基準では違った見え方がすることもあり、幼少期に気が付いてもらえない場合があるようです。しかしそのまま成長してしまうと、周りの人と同じようには出来ないことが多くあり、家族や友人との人間関係がうまく築けず、自分を責め続けて二次障害と言われるウツなどの心の病を発症する原因になってしまいます。私が発達障害の診断を受けたのは、長いこと良くならない自分のウツ症状や不眠が、この二次障害である可能性を考えたからです。
発達障害は「害」という言葉のネガティブなイメージを避けるために、「発達障がい」または「神経発達症」などへ呼び方が変化していますが、ここでは現在一般的に知られている「発達障害」という言葉を使います。

第一回の記事では、検査や診断までの経緯をお伝えしました。

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」 第一回

第二回では私が受けた検査や診断までに感じたこと、診断の結果をご紹介しました。

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」 第二回

発達障害の診断を受けられずに過ごした幼少期

幼稚園児の段階で、自分には周りの子供とは違うことや出来ないことがあることをなんとなく理解していました。

もともと私には遺伝性の色覚異常もあり、多くの人と違った色の世界を見ています。そのために人とは違う色の表現をしてバカにされる経験を重ねて、自分が思ったことを正直に言ってはいけない場合もあること、会話を誤魔化したほうが良いこともあるとわかっていたのです。

ですから発達障害での違いも、うまく誤魔化す方法を身につけやすかったのだと思います。苦手なことを隠す特性のために発達障害をまわりに気がついてもらえないのは、特に女性に多いといわれています。

周りと同じスピードでできない事に悩む幼稚園児

幼稚園の頃から、周りの子供と比べると時間がかかったり、苦手なことが多いと感じていました。私は周りの人も同じように出来ないことがありながら、工夫をして早く上手にこなしているものだと思い込んでいました。その反面、工夫しても上手く出来ないことの多い自分を責め続けてもいました。そのうちに上手く出来ないことは誤魔化して、適当に諦める方が楽に感じるようになりました。

興味を持てればたくさん反復練習をして、人並みかそれ以上にできることもありました。特に音楽とダンスは、練習が少なくても周りよりも上手く出来ることがありました。記憶するよりも、体で覚えることだったからかもしれません。しかし運動、中でも球技は明らかにルール通りに動けず苦痛でした。ドッジボールはいかにボールに触らないで残るかという、今思えば間違った方向で回避して最後まで残って喜んでいました。

工作や絵はじっくり作ることができず勢いで早く完成させるので、得意に見えて褒められることが多かったです。自分も得意だと思っていましたが、決して器用に細かく作り込むようなものではなく、直感的なことを恥ずかしがらず躊躇せずに表現するだけなのだと思います。

友達を作れない幼稚園児

この頃から集団での行動、特に女の子のグループが苦手でした。いまでも同世代の女性には苦手意識が先立ち、居心地の悪さを感じます。表面に見える態度や言葉と本音が違うことを理解できないし、集団と一緒に長く行動するのはもっと苦痛だからです。特に女子はどうしてそんなことするの?何をやっているの?と行動の理由をいちいち聞くし、トイレまで一緒に行こうと言いだすし、とても嫌でした。

昨日まで仲良くしてくれていた子達から、突然仲間はずれにされることも多かったです。突然だから何故かわからないし、もうそうなったら自分から声をかけることが出来ません。自分から媚びて仲良くしたいほど魅力的ではないし、私が嫌いならば声をかけたら迷惑だと思うから、そのような時は一人で過ごすことを選んでいました。周りの女の子のやることや話す内容がつまらなくて興味を持てず、私が失礼な反応をしていたのかもしれません。しかし仲間外れにされたり意地悪なことをされたりすると心は傷つき悲しくて、平気なふりをしていても胸の奥のほうに重い痛みを感じていました。クラスの子と積極的に自分から仲良くすることもできないし、したくもないので、自由時間は一人で砂をいじって時間をつぶす事が多かったです。つまらなくて早く時間が経ってほしいけれど、家へ帰りたいとも思いませんでした。

それでも不登校は選べなかった理由

幼稚園児ですでに女子の同調圧力に苦しんでいましたが、そのことは誰にも話しませんでした。話せなかった、というほうが正しい表現かもしれません。自分の心が痛くて苦しいという感覚を言葉にして上手く表現できないし、母に知られて理解されずに怒られる可能性のほうが高くて、まだ我慢したほうが良かったからです。幼稚園の頃には父親から性的な虐待を受け、その頃から母からも言葉や手足で暴力を振るうことが増えたからかもしれませんが、家で留守番をして完全に一人の時間が一番気楽でした。人といると嬉しくて楽しくなるけれど、誰にも本音を言えずいつも寂しい気持ちと、楽しい時間には必ず終りがあることを知っていました。

この後もどんなに学校が嫌でも、「学校へ行かない」という選択肢は私にはありませんでした。家も嫌だし、学校も嫌だったのです。人間関係の苦手さは社会人になっても変わらず、今でもあります。人と一緒に行動することを全く出来ない訳ではなく、むしろ得意で楽しそうに見えるタイプかと思います。でも人と過ごした後は、その強い刺激に負けて毎回抜け殻のようになってしまいます。ある程度自力で生活をするには、完全に一人になって充電する時間がないと疲れ切って体調を崩してしまいます。

授業では積極的な幼稚園児

人とは積極的に関われないのに、先生がいる授業中は人が変わったように積極的に過ごしていたと思います。幼少期から音楽と踊り、お絵描きや図工が好きだったので、幼稚園の授業は一番私に合っていたのではないかと思います。褒められたい気持ちが、周りの目を気にすることや人前で間違える恥ずかしさよりも勝っていました。
活発で明るい性格だと思われて運動の教育に熱心な私立の幼稚園へ通ったし、先生達も私が楽しそうにする面をみて、まさか仲間はずれにされて幼稚園が嫌いだとは思いもしなかったでしょう。表面上は明るくて活動的で、外向的な子供に見えていたと思います。

幼稚園以外ではピアノ・バレエ・お絵描きの習い事に通い、ときどき隣の家に住む三兄弟を年齢関係なく子分のように引き連れて森を探検して木から降りられなくなったり、駐車場で初心者マークをたくさん集めてきて一台の車に花の形に貼って派手にしたり、関東ローム層をほじくり続けたり、蟻の穴に水を流し続けたり、外で過集中になって時間を忘れる面もありました。生傷が絶えないといわれ、実際に常にアザや擦り傷がありましたが、どこで怪我をしたのかは覚えていませんでした。

小学生からわかっていた多動と衝動性

ADHDの特性の中でも、多動といえば「授業中に突然歩き出す子」という表現をよく目にすると思います。この多動には「脳の多動」も含んでいるので、実際には歩きまわることがなくても頭の中が忙しくて疲れて切ってしまいます。見た目にはわからないため、家族や周りの人が気付きにくいことも多いようです。本人も元々がそうなので、幼少期にそれを変だと言って自ら訴えることはできません。

小学校で初めての担任はとても厳しい先生だった

小学生になって最初に担任になった先生は、とても厳しい方でした。忘れ物をしたり授業中に席を立とうものなら怒られて立たされるし、給食を残せば食べ終わるまで席を立てない、出来ないことがあると放課後は暗くなるまで居残り練習もあるしで、泣かされる生徒も多くいつも緊張して過ごしていました。当時でさえ厳しすぎると父兄から学校へ苦情もきていたそうですから結構なものだったと思います。私は他の先生を知らなかったので、小学校とは何と厳しいところなのかと思って受け入れていました。

でもその先生のおかげで、私は自由に動くことを抑えられたのだと思います。他の子が怒られていると自分も怒られているように感じるところもあり、常に緊張していました。もしのびのびと育てる先生だったら、私のADHDの特性は早くに見つかったのかもしれません。でも私はその先生が嫌いではなかったし、これで良かったと思っています。おそらく出来たことや良い面を心から褒めてくださるし、学校や人と過ごす時のマナーを最初に厳しく教えてくださったことに私は心から感謝しています。そして発達障害の二次障害はとても苦しいですが、あの頃に診断を受けていたら私の人生はもっと狭い世界しか見れなかったと思います。失敗や生きづらさの反面、知らないが上の自由も経験できました。

ちなみにその先生とは30代から時々連絡を取っていて、私の担任の後は特別学級の担任として教員を続けて定年を迎えられました。それを知って、先生が嫌いではない自分の感覚も間違えではなかったと感じています。

女子のグループから受け続けた嫌がらせ

小学校一年生の頃、仲良く遊んでいたのは同い年の男の子でした。父の知り合いの子でした。しかしいつも一緒に公園で遊んでいたら、女子のグループから「付き合っている」「キスしているのをみた」と嫌なことを言われ続け、一緒に居づらくなってしまいました。

旅行などでなにかの班やグループを作る時には、昨日まで一緒によく話していたグループが先に申し合わせてグループをつくってしまい、自分はポツンと残されてしまうことが多かったです。そうなるとクラスで仲間外れにされている転校生などと一緒にグループを作ることになるのですが、その子達は優しくて話が楽しくて一緒にいるのが楽でした。でもそれをまた、「仲良くしてる!仲間だったんだ!」と言ってきたり笑われたりして、女子のあの面倒くささは本当に嫌いでした。

他にも女子には手に鉛筆を刺されたり、大切なものを持ってくるように言われて学校で壊されたり、新しい洋服にペンで落書きをされて母に怒られても、本当のことは言えませんでした。鉛筆を刺された跡は、まだ入れ墨のように残っています。人生初のタトゥーが小学校三年生とは、なんだか私らしいと今では笑って話せます。もしかしたら今ならイジメと言うのかも知れませんが、私の幼少期は何処にでもある話しで、大怪我をしたり不登校にでもならなければスルーされることだったと思います。

家で遊ぶことを楽しみにしていた友達が事故死。新たなPTSDに

学生の頃は、母の許可なく放課後に友達と遊ぶことができませんでした。誘われることがあっても、自由に外へ行くことを決められませんでした。母は留守の日が多かったので、以前許可がでなかった人に誘われたら自分で断っていました。
気軽に家で一緒に遊ぶことが出来た友達は、母の友人の子供で、家に親子で来てもらえたら遊べました。
しかしその子は、小学校3年生で学校の校舎から転落して亡くなってしまいました。私は偶然転落するところと、落下後の血だらけの状況も見てしまいました。

当時の学校では心の傷のケアは一切なく、家族も見てみぬふり、母からは事故を目撃したことは誰にも話すんじゃないよ!と怒鳴られ、あまりにも悲しくて自分が死ねば良かったと考えるようになりました。自分の悲しい気持ちを誰にも言えず、隠さなければならないのは一番辛い出来事でした。通常は記憶が薄れて忘れるような細かい言葉も、傷ついたらハッキリとフラッシュバックのようにその時の感情ごと思い出すのは発達障害に多い特性です。一度PTSDを患うと、他の原因でのPTSDになりやすさもあるようです。発達障害とPTSD、性虐待と発達障害の関連など、ネットでも医師の書いたものを読むことができます。

小学校五年生の頃には肩こりや首の痛みに苦しんで整形外科を受診するも、左側だけ腫れがあるけれどレントゲンには異常がないといわれました。虐待と事故の目撃のPTSDから線維筋痛症の症状が出ていたのかもしれませんし、同時期にはめまいが酷くて朝礼で意識を失って倒れるようにもなりましたが、検査をしても貧血ではありませんでした。

仲の良い友達が発達障害で私自身も検査を検討された

その後私が小学4年生の時に、県外から転校してきた子と気が合って二人でお互いの家を行き来して遊ぶようになりました。この子も母親同士が仲良くしていました。
しかし5年生でクラス替えになり私と離れてから、その子は不登校になりました。その友達が専門医に発達障害の診断をされた話を聞いた両親は、私の検査も検討しました。40年以上前は発達障害に関する情報は少なくて、普通に生活するには問題ないからと、結局は検査も受けず仕舞いでした。友達が「発達」の障害だと聞いて、見た目は私と変わらないし成績は自分よりも良いのに、何が自分と違うの?と思ったのでよく覚えています。

私が発達障害を検討された理由

私はじっとしていることが苦手で落ち着きがなく、おっちょこちょいで、癇癪(かんしゃく)持ちだと言われていました。友達と一対一なら仲良くできるのにグループ行動ができず、自由時間もグループで遊んだりドッジボールがやりたくなくて教室に隠れていました。
バレエや楽器は得意だったけれど、ルールがある球技、鉄棒や跳び箱で決まったことをする体操など体育が苦手でした。感じるままに身体を動かすことは好きだけれども、ルールがあると私にとってはマルチタスクになってしまいます。今でも一度に考えることが二個以上になると動きが悪くなり、三個目になるとその場で混乱してフリーズします。

中学生になって好きな作家が出来るまでは、好きな絵本2冊以外を最後まで読めたことがありませんでした。教科書も、見開き半分さえ続けて読むのが難しかったです。
全般的に音楽や言語などの表現をする教科は成績が良いけれど、記憶が必要な興味のない教科には集中できない、まわりとの協調性がない、というADHDやASDの特性が強くみられました。

小学校四年生からは音楽中心の生活

私は小学校四年生から卒業まで、学校のマーチングバンドに入っていました。マーチングバンドの練習は、楽器を演奏しながら全員がぴったり歩いて動きを合わせる練習をします。私は団体行動が苦手だけど、音楽は誰よりも出来るという自信があったので入りました。

一年目はトランペットとパーカッション担当で他の人に合わせて動いていましたが、二年目からは単独で動く指揮者になったので、他の人に歩幅を合わせるような練習には参加しないで済みました。全員の動きを覚えて常にみなくてはなりませんでしたが、楽器の演奏なしで自由に表現できるポジションに集中できたのは私には合っていました。
この他にもピアノも習い続け、さらにフルートも習いました。私には絶対音感があったようで、新しく私に音楽を指導する先生はみなさん驚き、母に話していたようです。本人にとっては世の中のあらゆる音が音符になっていて、とてもそれを苦痛に感じていました。聴力検査のときには大抵やり直しになるほど、小さな音も聞こえていました。いつも音に敏感ですから、音でもとても疲れていました。譜面を注意深く読むことは苦手ですが、先生が見本を聞かせてくれたらそれを真似して出来るのであまり不便はありませんでした。

発達障害の特性として、音に敏感だったり絶対音感のある場合も多いようです。

勉強のやり方がわからない小学生

学校の勉強は、得意なことと不得意なことで極端に成績が違いました。
集中して教科書の範囲を最後まで読めないので、何度も読んで暗記することはできませんでした。
学校の勉強が大人になって何の役に立つのかが想像できなかったし、勉強の方法もわかりませんでした。ましては暗記はテストのためで忘れる前提だと思っていたので、生きるために必要ある事だとは思えませんでした。

音楽、図工、作文などは好きで、授業中にはとりあえず手も上げて参加します。幼少期から変わらず間違えることや人と違うことを恐れないので、記憶があまり必要ない教科の成績は良かったです。

ただし体育は苦手意識も高く、特に道具を使う跳び箱などは失敗するのと痛いのが怖くて苦手でした。これも将来何の役に立つのか、全くわかりませんでした。算数と国語は個人授業を受ければなんとか中の上程度にはなったので、地頭が悪いようではありませんでした。先生には可愛がられる子供だったと思いますが、男性の先生は苦手でした。男性の先生が子供に私の名前をつけると聞いたときは、なんとも言えない嫌悪感を覚えました。

幼稚園も小学校も行きたくないけれど家にも居たくない、友達と放課後に遊ぶのは一対一ならできるけど毎日は疲れる、音楽を聞いたり演奏するのとアニメが大好き、でもテレビを観るときも落ち着かないから根昆布を噛みながら観る、かんしゃくを起こすから親から宇津救命丸を与えられる、そんな子供でした。

私立の中学受験もしましたが、まともに受験勉強をしていなかったので見事に落ちました。母になじられて大きな傷となり初めての大きな挫折でしたが、誰にもその話も詳しくしたことがありません。自分の中で、無かったことにしています。

幼少期まとめ

この記事を書く現在、ADHDの治療薬を開始してから数ヶ月経過しました。ひどい吐き気はなくなりました。

最初は落ち着いてきたことを喜んでいましたが、段々と自分がどれだけ出来ていないことが多いのか、人と比べると苦手なことが多いのかが見えてきて混乱する時期を迎えています。しかしこれは自分を客観視するようになったからで、少しずつ工夫をして周りの人に苦手なことは助けてもらいながら、今後生きやすくなるために必要なことを身につける経験をしているのだと感じています。子供の頃に周りにしてもらえなかったことを、いま自分で身につけるだけだと思っています。

誰でも上手く出来ないことがあって当たりまえ、それは得意な人に助けてもらえばいい。完璧は求めないし、誰とも比較したり勝ち負けも考えず、ゆるりと感じるままに行きていこうと思っています。

では次回からは診断を受けずに過ごした中学生から成人期でどのような特性や悩みがあったのか、また男性と女性の発達障害の違い、大人になってから診断を受けることのメリット・デメリット、発達障害の二次障害についても私の経験をもとに紹介していく予定です。

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