差別との闘い。誰もが暮らしやすい社会を目指して
前編「障害者の未来は自分たちで変えられる!川﨑良太さんの闘い(1)」では、NPO法人 自立生活センターてくてく代表の川﨑良太さんから、自立生活センターの活動や経歴と考えの変化について、お話を伺いました。
後編はこれまでの障害者運動の歩みを、川﨑さんの思いとともにお伝えします!
ざっくり
失敗を経験することの大切さ
川﨑さんは自立生活において、失敗を経験することも大切だと話されました。
なにかあったらどうするか、責任は誰がとるかなど、周りの判断で失敗する機会を制限されたり、奪われたりしてきた障害者は多いのではないでしょうか。
また、年齢を重ねることによって失敗は恥ずかしいことと感じ、しないほうが良いという意識が働き、過剰に避ける人もいるでしょう。
前編でもお伝えしましたが、川﨑さんはこうも話されました。
「障害者が社会へ出ることや自立することは権利として認められており、本当は理解させていく必要はないはずなのです。」
失敗もまた、生きていると必然的に起こりうるもの。
あえてそれを大切だと伝えたことに、今も残る障害者差別の意識を感じました。
障害者運動の歩み
取材を行った際、川﨑さんから「ぜひ観てください!」と手渡されたDVD。
「人生を変える 社会を変える 自立生活運動の歴史と役割」、全国自立生活センター協議会(JIL)が製作したものです。
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障害者のこれまでの運動や歩みはこのDVDを中心に、1970年代から順にひも解いていきます。
重めの内容ではありますが、ぜひ知ってほしい問題です!
1970年 脳性まひ児殺し
70年代、障害者は治療や保護の対象として家庭や施設で管理される存在であり、人間としての尊厳は否定されていたといいます。
そんななか、横浜市で母親が2歳になる子どもを殺害する事件が起こりました。
当時、親が障害児の我が子を殺害することは社会現象になっていました。
介護を苦にして将来を悲観した親に対して、マスコミは「悲劇」と報じ、地域は減刑や無罪を求めました。
被害者であるはずの障害児の命を否定している。我々は殺されていい命なのか。
神奈川県の脳性マヒ者の当事者会「神奈川青い芝の会」は、このような社会を痛烈に批判し衝撃を与えました。
1971年 府中療育センター闘争
その翌年には府中の施設の非人間的処遇に抗議し、利用者によるハンガーストライキが行われました。
この施設は障害者の発生を予防するための研究の場としてつくられ、入所するためには親が子どもの解剖承諾書にサインしなくてはならなかったといいます。
カーテンもない集団での生活は、部屋もトイレも丸見えの状態。
この闘争は2年に渡り、利用者たちは生活の場としての改善、地域で生きる権利を訴えました。
1977年 川崎バス闘争
当時、車椅子に乗る障害者に対し、バスの乗車拒否が全国で相次ぎました。
全国青い芝の会は交通局などに何度も話し合いを持ちかけましたが解決策は見えず、大勢の障害者がバスに乗り込んだり、バスの前に座り込んで運行を止めたりと抗議運動に発展しました。
1986年 日本初の自立生活センターが創立
1981年、世界初の障害者自立生活センター(CIL)を創立し、障害者の環境の改善活動を行っていたエド・ロバーツが来日しました。
自身も人工呼吸器をつけた重度障害者であった、エド・ロバーツ。
それまで、自立とは経済的に独立していること、誰の助けも借りずに日常生活を送ることを意味していました。
「介助を受けることは恥ずかしいことでも、主体性を損なうことでもなく、自らの意思で選択、決定することが重要だ。」と伝えました。
そうして1986年、日本にも自立生活センター「ヒューマンケア協会」が八王子に誕生しました。
「この夏、社会を変える!『ADA27 LEAD ON! YOUTH PROJECT』を見届けよ」
エド・ロバーツの思いは、次世代に引き継がれています。
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1988年 交通アクセス行動からバリアフリー法選制定
この年に交通アクセス運動が起こり、交通機関のバリアフリー化が進められていきました。
それまでは2日前に交通機関に連絡し、車椅子を荷物扱いで収納され、本人は座席に移ることが普通だったといいます。
(自分の体勢に合った車椅子から離れることの不安と不便さを、車椅子ユーザーはお分かりだと思います。)
しかし、交通機関の問題は現在も続いており、ひふみよタイムズでも何度かバス問題を取り上げてきました。
「『低床式バス』の発車時刻に関する車椅子ユーザーの憂鬱」
「乗車拒否されたある日。運転手さん「一般のお客様」って何ですか?」など。
80年代に結成された「だれもが使える交通機関を求める全国行動実行委員会」の運動は、今も続いています。
1996年 優生保護法から母体保護法へ
今年初め、強制的に優生(避妊)手術を受けさせられた知的障害者の女性が、国に謝罪と補償を求めて提訴しました。
5月末には仙台で抗議デモも行われています。
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不良な子孫の出生を予防することが目的で、遺伝性疾患者などは本人の同意なしで不妊手術や中絶が認められていた「優生保護法」。
この問題はすべての女性に関わる問題であり、1995年に北京で行われた「世界女性会議」で世界から厳しく否定されました。
翌年に母体保護法へ改正され、強制断種などの規定は削除されています。
2003年 支援費制度上限問題 / 介助者の生活保障
それまでは行政が障害者のサービスの利用先や内容などを決めていましたが、支援費制度が導入し、障害者自身の自己決定によってサービスの利用ができるようになりました。
また、川﨑さんは障害者の自立生活において、介助者の存在の重要さも伝えました。
「障害者と介助者は同志でもあります。
障害者自身も介助者のことを考え、関係性を築いていくことが大切です。」と話されました。
介助者の生活保障が整うことで、障害者の生活も安定します。
わたし自身も介助者制度を利用しており、互いの生活を考えることはとても重要だと感じています。
そして現在
時代を追っていくと、障害者を取り巻く環境は改善してきていると感じました。
それは、訴えてきた当事者たちがいたからこそ。
しかし、まだまだ暮らしやすいとはいえず、悲しいことに障害者を虐待や監禁、殺害する事件は現在も起こっています。
記憶に新しい、2016年7月に起こった相模原障害者施設殺傷事件。
「意思疎通が取れない(と思われている)人間は安楽死させるべき」という加害者の思想や言動、他の事件と異なり、被害者の名前を公表しない点も問題となりました。
川﨑さんは、こう話されました。
「いまの生活が送れることは闘ってきた先輩のおかげで、自分たちはそれを担っていくことが大切だと思います。
制度はいつ、がらりと変わるか分かりません。そのときに、闘う人がどれほどいるか…。」
前編でもお話したように、障害者が暮らしやすい社会は誰もが暮らしやすい社会です。
障害者の問題は、すべての人間に通じる問題なのです。
そして、なにより障害者自身が自分たちの問題だと考えていくことが大切だと感じました。
取材を終えて
実は、川﨑さんを取材させていただいたのは4月の初めでした。
記事にするまで2ヶ月!とても時間が掛かってしまいました。(すみません!)
お話を伺い、自立生活運動について知るにつれ、発信していくことの大切さをひしひしと感じ、なかなか記事としてまとめられずにいました。
自分にも眠る差別意識
記事にするにあたり、何度も考えた川﨑さんの言葉があります。
「障害者だから我慢するべき!というのを障害者自身が声高に叫んでしまうのは、他の障害当事者を苦しめることになるのではないか。」
この言葉は全国のみならず海外にも行き、訴えを続ける川﨑さんの叫びだと感じました。
わたしたちは「我慢すること」に、どこか慣れているところがあります。
人の手を借りることが多い自分が動くことで、周りに迷惑が掛かるのではないか。
なにかを頼むときに、どう伝えたら1番嫌がられないか。
社会のおかげでひとり暮らしができる今、これ以上を望んでいいのか。
わたし自身、どこかでその思いを消せずに生活してきました。
しかし、それは自分自身を卑下し差別していることです。
その差別意識は障害者に限らず、誰の心にも無意識にあるものではないでしょうか。
今回の取材で、ひとりひとりが奥に眠る意識と向き合い、どうしたら良い方向へつなげられるかを考えていくことが大切だと感じました。
自立生活センターを必要としない社会へ
そして、障害者がより生活しやすい社会にするために動いてきた人たちがいて、今も闘っている人たちがいるということを、もっと知ってほしいです。
「自立生活センターは自己消滅型。いつか無くなるもので、センターを必要としない社会が1番いい。」
実際にセンターで働きながら、この思いとともに誰もが暮らしやすい社会を目指して動いている人たちがいるのです。
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