正しい「かわいそう」の使いかた
愛情とかわいそうと水ごはん
一人暮らしをするまでの半年間、実家で3歳の姪と暮らしていたことがある。
半年も一緒に暮らしていたので、今でも姪から私への愛は半端ではない。
久しぶりに実家に帰省すると、「くまさん!(私のこと)」と飛びついてきて、どこに行くにも付いてくる。とにかく超愛されてるのだ。
そんなある夜のこと。家族みんなでご飯を食べていたら、4歳になった姪が「くまさん、水ごはん食べないの?」と聞いてきた。
水ごはん
水ごはん。それは、文字どおりごはんに水をぶっかけたものだ。
一緒に暮らしていたときにたった一度だけ、人生に疲れ切っていた私はお茶を沸かすのもしんどくて水道水をご飯にぶっかけ、「水ご飯」を食べたことがある。姪はそれを覚えていたのだ。
「水ごはん食べないよ」と言うと、「おにぎりたくさんあるから食べていいよ」と勧めてくる。愛されてる。
それからお風呂に入って、1階で寝る姪におやすみを済ませ、2階で寝ようと思い階段を登ろうとすると、「くまさん待って!」と姪が走ってきた。
おやすみのキスだろうか。そう思っていると、「はいっ」と満面の笑みで何かを手に乗せてきた。見ると、子供向けのキャンディがのせてあった。
「たべていいよ」
姪が天使のような笑顔で笑いかけてくる。
‥‥‥思えば違和感はあった。「水ごはんたべないの?」「おにぎりたくさんあるから食べていいよ」そして施しのような「キャンディ」。
間違いない。私は姪に貧乏だと思われている。昨今の日本全体にはびこる貧困問題をこんな形で突きつけられるとは思ってもみなかった。
まがりなりにも一人でなんとか生活している私は、自分より30歳も若い姪に、愛される以上に可哀想と思われていたのだ。
ーー他人に可哀想という言葉を使うとき、それを相手が望んでいるかを見極めなきゃ。大抵の場合、それは相手をくじけさせるーー。小説『僕は勉強ができない』のなかで、主人公の恋人はそう語る。
姪よ。私はくじけてはいないから安心してよい。貯金だってちょっとはあるのだよ。ただ、姪の誕生日に買う予定だったおもちゃの値段設定を上げて、私が貧しく可哀想な思いをしていないことは知ってもらおう。
そして姪のなかで確立されつつある“貧しい=可哀想”の図式に、できることなら別の角度から光をあてる視点も持ってもらえたらな、と思う。何を思うかは個人の自由だし、こうあって欲しいと願うことすらエゴなのかもしれないけれど。それでも。
ちなみに、最後の“貧しい=可哀想”からあとのくだりは、私が物事を深く考え、子供のことを想っていると、エッセイを読んでくれている女の子に思ってもらうためのただのアピールである。
よこしまな考えから無理やりひねり出したので、効果があるかは甚だ疑問だ。
このエッセイの着想を得た本
『僕は勉強ができない』山田詠美/著
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