2026/3/10:フリーペーパーvol.120発刊!

私がっ!ライターにっ??ALS発症前後の話(前編)

なんで私がALS発症しなければならないのか

 ご縁がありまして、ひふみよベースでライターのお仕事を頂きました。
文章を読むのも書くのも苦手で、家族からも『国語が出来てないよ。。。』といつも指摘されているのに、何を書こうかと考えました。 やはり、私がALS(筋萎縮性側索硬化症)になってからの経緯を書かなければと。

 今年の3月で発症して8年経過したことになります。日中は車いすで過ごしています。身体は膝が伸ばせる程度です。ですから、ほとんどの事はサポートをもらっています。胃瘻を作り、口からはお茶をスプーンで数口飲む程度です。言葉も失いました。失ったものを数えると数え切れませんね。数えるのはやめておきましょう。

私が壊れていく、、、

 私も普通の家庭のように妻として母として。訪問リハビリで理学療法士として働いてました。皆さんと同じように主人と子供の成長を励みに家族5人で楽しいことは5倍に苦しいことは1/5になるように過ごしていました。理学療法士としてもやっと自分がやるべきことが見え始めていたところでした。
 初めの違和感は、右足の強めのツッパリ感でした。ツッパリ感は日々強くなり、近くの整形外科を受診しましたが、病名がわからずに紹介をされた近くの神経内科へ行きました。精密検査を受けたほうがいいと、さらに地域の大きな病院に行きましたが、入院をしたほうがよいと判断され鹿児島大学病院に入院しました。精密検査、入院加療を繰り返し、やっと確定診断がわかった頃、私の体は歩けるのは数メートルで車椅子を使うようになってました。違和感があってから1年9ヶ月経っていました。

確定診断

 赤ちゃんなら産まれて歩けるようになる期間ですよー同じ期間で私は歩けなくなるのです。複雑ですね。理学療法士でしたから、薄々はヤバイなーなんて思ってました。医療スタッフの皆さんの会話などがわかってしまう。確定診断後から退院する間に紹介状を書くために何度も医師から『気管切開をするか?それとも気管切開しないのか?』確認されたのです。
 医師もそれが仕事ですから聞かれるのは理解していたつもりですが、自分のこととなるとやっぱり無理でした。遠方に住んでいるので仕方がないのですが、こんな大事なことを主人と電話で話し、主人は涙声で生きてほしいと私に言ったのを今も覚えています。
「『生きますか? それとも死にますか?』って聞かれてるのと同じですよ」って、「すぐに決めろって難しい」って言いたかったけど、言えなかった。だから代わりに『三男が10歳で、この先のことを考えると不安です』と話したら、あっさりと『10歳は大きいほうですよ』と言われました。
 薄いペラペラの紙(気管切開した同病の方がサポートを受けながら自宅で家族と暮らしている記事をコピーをした)を渡し、『お子さんが小さいほど、気管切開して楽しく暮らしてますよ』と。

その時は医師の言ってる意味が私には全く理解できなかった。
不安で涙が溢れるのと他人事のように話されるのに対して誰に当たりようもなくてムカついていたことを覚えています。確定診断までもわからずきつかったけど、重い病気ではないと信じてきたわずかな望みも壊れた時は、死にたくてたまならかった。医師の言葉もつらかったなぁ。子育て世代の私には妻として母として出来ないこと=失格ですと言われたように考えてしまい、ALS発症は想像を絶するものと感じました。

ここまでは、私がALS発症前後の話(前編)でした。次は、ALS発症後について話(後編)をします。

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