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2024/4/10:フリーペーパーvol.97発刊!

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」(最終回)第10回

みんなが知っているのとはちょっと違う「女性の発達障害」

私は50歳で発達障害の診断を受けました。ADHD(注意欠陥/多動性障害)、そしてASD(自閉症スペクトラム障害)の傾向も多少みられるという診断で、すぐにADHDの治療薬を使い始めました。幼少期に発達障害の専門医受診を検討されたこともありましたが、結局は治療やサポートを受けること無く生活してきました。

社会に出てからも自分に発達障害があると知らずに生活していましたが、すでに周りの人と同じようには出来ないことがあると気がついていることも多くあり、自分なりに工夫をしながら仕事をしていました。不器用で人よりも苦手なことや時間がかかることがあるというレベルだと思っていましたが、過集中にもなりやすくていつも疲れ切っていました。

自分のコントロール方法をしらず、無理を重ねて不調を起こしているのにそれを無視し続けた結果、30代半ばで限界に達して社会に復帰できないほどの発達障害の二次障害と思われる症状も発症してしまいました。

この記事は発達障害のサポートを受けずに成長して、「発達障害の二次障害」を発症するまでの自分史のような要素が強いですが、同じような人がいたらどのような感覚なのかを知ってもらうきっかけになると嬉しいです。今回は私が短大時代に始めたアルバイトを経て就職をした頃のことを書きます。そしてこの連載は、今回で最終回にいたします。

おそらく50歳で発達障害の診断を受けるなんてどうして必要なの?と思われるかもしれませんが、私自身は診断を受けたことでとても楽になりました。いままでのたくさんの困ってきたことの理由と改善方法が、具体的にわかってきたからです。そしてADHDの治療薬も合っているようで、行動に落ち着きがでて生きやすくなったと感じています。自分の苦手なことや得意なことを客観的に知ったことで自分のことを理解しやすくなり、周囲にも伝えやすくなりました。

発達障害は幼少期にわかるケースが多いのですが、特に女性では現在の診断基準とは違った見え方がすることもあり、幼少期に気が付いてもらえない場合があるようです。しかしそのまま成長してしまうと周りの人と同じようには出来ないことが多くあり、家族や友人との人間関係がうまく築けず、自分を責め続けて二次障害と言われるウツなどの心の病を発症する原因になってしまいます。私が発達障害の診断を受けたのは、長いこと良くならない自分のウツ症状や不眠が、この二次障害である可能性を考えたからです。

発達障害は「害」という言葉のネガティブなイメージを避けるために、「発達障がい」または「神経発達症」などへ呼び方が変化していますが、ここでは現在一般的に知られている「発達障害」という言葉を使います。

これまでの記事はコチラから

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」
https://tinyurl.com/2g8cqtf4

自分にあった環境で働く大切さ

短大卒業後は就職せず、学生時代に始めた貿易事務のアルバイトを続けました。そして一年後に就職活動をして、大きな企業の貿易事務の仕事につきました。私が配属された海外事業部には外国人や海外生活経験者が多く 、社内の雰囲気も若くて、私が外資系企業に持っていたイメージに近く感じました。

社内制度も充実していて、働きやすい環境づくりにも積極的でした。ISO(国際基準に沿った組織であるという認証)を取得して、明確に業務フロー化(仕事の流れが図でわかるなど)もされていました。

発達障害で曖昧なことが理解しづらい私にとっては、やることやルールがわかりやすくて「空気を読んで判断する」ということが少ない環境がとても働きやすいと感じました。

学生時代よりは居心地の良い人間関係

社内には個性的な人が多く、その個性もしっかりと尊重されていると感じました。グループ行動が苦手な人も多くて、女性同士であっても一緒に昼休みを過ごすことを断ったり、仕事の後に飲み会などで交流をしなくても嫌な思いをすることはありませんでした。

人間関係にあまりがんばる必要のない環境は、新しいことへ慣れるのに時間がかかる私には有り難く、まずは仕事に慣れることに集中できました。すべてをうまくやろうとするとタスク(やること)が増えて疲れてしまい、すべてが中途半端になりやすいからです。

おそらく母がヒステリックだったためか、学校での女子同士の関係で嫌な経験をしたためか、私は女性が苦手で怖いと感じることが多いようです。周囲の会話や、仲良しとそうでない人の派閥のようなものが早く変化して、嫌味も理解できないからです。女性同士の関係は、とても複雑でわかりにくいです。

誰とでもうまく関わっているようにみえる人をみては羨ましく思い、自分もそうなりたいとがんばってみますが、嫌な感覚をもつ人に対して「媚びたり機嫌を取ろうとしている」と気がつくと、自分に対して大きな嫌悪感を持ってしまいます。嫌と感じているのに合わせることができません。

誰とでも仲良くする必要がないとわかっていても、程よい距離感もわかりません。「白か黒」とか「アリかナシ」で考えてグレーなことが苦手ですから、「うまくやりたい」と「嫌」の二つの極端な感覚の中間がつくれずに悩んでしまいます。同じように特に女性同士の関わり方に悩む人が多いのが、発達障害のある女性の特性ではないかと思います。

そして職場に関しても、私は仕事の内容よりも人間関係が合わないほうが会社を辞めることを考える原因になりやすいと感じています。自分が辞めて消えることで、人間関係をリセットしたくなる感覚も強いと思います。しかし広い視野で状況をみて、あわてて極端な判断をしないように自分に言い聞かせています。「木をみて森をみず」という言葉を思い出すようにしています。

職場の人間関係は入社してみないとわからないですが、仕事を選ぶときには良い部分だけではなく、自分が苦手と感じる要素がおおい職場を避けて少しでも居心地の良さそうな職場を選ぶことが大切だと思います。もし男性が苦手なら女性が多く活躍している職場を選ぶこと、年配の人が偉そうにしているのが嫌なら若い人が多い職場を選ぶことは可能だと思います。会話が苦手なら、人と話して進めることが少ない仕事をしたほうが楽です。そのためには、自分がどのようなことを強く嫌と感じるのかをよく知っておく必要があると思います。

もちろん会社に限らず、どの人間関係も入ってみないとわからないことも多いです。自分から居心地を良くしていく努力と勇気も必要だと感じています。

それでも唯一の悩みは人間関係

環境の変化に適応するまでに年単位で時間がかかり、人の目も気になって落ち着かない私は、広い社内で気が散って困っていました。私を指導してくれることになったベテランの女性はとても親切で、私の確認の多さにも嫌がらずに丁寧に答えてくれました。その先輩に業務以外のことも相談して、安心して会社に馴染んでいくことができたと思います。

しかし同時期に入社した新卒者が配属されると、自分と新卒者達を比較してしまいました。要領が良くて覚えの早い同期をみては、劣等感にかられていました。私も新卒扱いだから一応同期だったのです。仕事へ行くのが嫌になるほど、自分の要領と覚えの悪さが嫌でした。

さらに要領が良くみえる人の物の扱い方や仕事が雑なところ、大声で周囲を巻き込んだり、自分への距離感が近くてペースを乱してくるところが図々しく感じて嫌でたまらなくなってしまいました。とても悩んで嫌な思いをして円形脱毛症になったり、胃痛で胃薬を飲んだり、肩こりから頭痛がひどくなって昼休みにマッサージ店へ駆け込んだりしていました。

同じようにはできない嫉妬心と、自分が嫌だと感じることが間違いなのか、仕事のやり方も自分が間違えているのだろうか?社会人としてやっていくには彼らのようにするのが正解なのだろうか?という混乱もありました。

今考えるとこの頃の新卒者はバブルがはじけて就職難になり、いままで社内にいた人よりも良い大学を卒業した人が多く、それまでの社風とは違うタイプの人材でした。少し先に馴染んでいた社内の雰囲気が急に変わったことへ、私は大きな抵抗を感じたのだと思います。

長いこと悩んでいたら、自分はその人達と仲良くなりたいわけではない、嫌われても構わないと感じていることに気が付きました。先輩たちがあまり仲良くしていないことにも気がついて、嫌なのは私だけではないのかもしれないということにも気が付きました。会社だけでの関係なのだから仕事がうまくまわれば良い、と割り切ることにしました。

チームは違ったので、業務に支障がない程度に「話しかけられたら答える、挨拶だけは自分からきちんとする」と接し方を決めてみました。そして自分はペースをまもって丁寧に確実に仕事をこなして、少しずつスピードアップしていくことに集中しようと決めました。そうすればきっと、数年後には私のほうが仕事が出来るようになると信じることにしました。具体的な対処の方法と、自分がやること、目標を明確にしてみたら動揺したり迷うことが少なくなりました。

たしかに自分の仕事に自信がついた頃には、嫌な感覚を持つ人へも余裕をもって接するようになっていました。仕事の面でも私のほうが幅広く任されるようになっていたし、周囲ともよいチームワークができていました。

ちなみに三年後には嫌だと感じていた人全員が、移動や転勤で部から去っていました。だから自分が会社を辞めないと嫌な思いをし続ける、という訳ではないことも学びました。

働きやすいと感じた社内制度

私の入った会社は有給休暇が多くて、多くの人が初夏や秋にも長期休暇を取っていました。チケットが安い時期に旅行へ行くことができたので、私も海外旅行をして新しい経験をすることができました。

早くからフレックスタイム制(出勤時間を自分で決められる)も導入していたので、朝早く電車が空いている静かな時間帯に出社したい人、残業を見越して遅く出社する人もいました。

生理休暇のとりやすさ

特に私が助かったのは生理休暇を堂々と取れることでした。生理痛が毎回ひどくて、吐き気や腹痛で寝てやり過ごさないとならない私も、先輩たちが堂々と当日朝に電話をして生理休暇を取っていたので、安心して利用することができました。

女性専用のロッカールームにはソファーベッドがあり、具合の悪い時は仮眠を取ることができました。仕事中に生理痛が酷くなった時は、痛み止めを飲んで数時間ソファーで寝てから仕事に戻ることもありました。男性を含めた周囲からも、丸一日休んで仕事がまわらないよりはそのほうが良いという認識だったようで、誰かに批判されることもありませんでした。

女性の発達障害の人には感覚過敏の人も多いので、生理のつらさをかかえている人も多いと思います。私の場合は痛いとか辛いという表現が下手だったり、生理であることを恥ずかしく感じて隠したい気持ちもあったので、この会社でやっと「生理」という言葉を男性にも言えるようになりました。

ラウンジや社屋内のコンビニ利用も自由にできたので、不調の時や疲れ切ってしまった時には事務所の外で一人で気分転換ができました。環境が良い代わりに、仕事の責任は重くて、こなさなければならない仕事量もとても多かったです。

スーツを着た大人の世界に慣れるまで

入社してしばらくは通勤をするだけで疲れ切っていました。東京の通勤ラッシュは学生時代から経験していたけれど、慣れることはありませんでした。新卒扱いで採用されたのに入社式も新人研修も受けず、結局は中途採用と同じ実務経験者として配属されて動揺もしていました。倉庫のアルバイトでは役職で呼ばれる人が所長しかいなかったので、大きな会社の役職の偉い順番もわかりませんでした。「部長と次長はどっちが偉いんですか?」と本人に聞いてしまう状態でした。

その会社では男性は全員スーツを着ていて、今まで一緒に仕事をした人達よりもすごく大人にみえました。女性はヒールを履いたきれいなお姉さんがいっぱい居ました。アルバイトの頃は事務職も作業服で、私もドカジャンを着て事務をしていました。

私にはいまでも子供目線のようなところがあり、社員が多くてスーツの大人が100人も同じフロアに居ると、なかなか顔と名前を覚えることが出来ませんでした。

自分を初めて認めてくれたのが社長という幸運

それでも良いことがありました。偶然よく廊下で会って話していたのが社長で、ある日社長室から内線で呼ばれてやっと知りました。その時に手作りのケーキを試食して欲しいと言われ、美味しくて喜んでいたらその後も時間があると「紅茶を飲みに来ませんか?」と内線が来て、15分くらい話すようになりました。社長は「理数系の出身だからケーキの材料を測って混ぜる作業が好きで落ち着く」と言っていましたが、食べながら会社に対して思うことを聞かれたり、何度も行くうちに社長のプライベートの悩みに対する意見も聞かれていました。私には偉い人と話すから緊張するという感覚がなく、ペラペラと偉そうな意見を言っていましたがとても真剣に聞いてくださる人でした。当時は私と話す時間をいただけるだけでも恐れ多い人とわかっていなくて、いま思い出すととても恥ずかしいです。

人によって接し方を変えることができないところは良くも悪くも取られましたが、社会に出てからの私の特徴的な個性だったと思います。

楽しかった業務外の経験

社内にはネイティブに近いほど英語が堪能な日本人もたくさんいたのに、社長は海外からの来客の接待で銀座のラウンジに連れて行ってくれたり、一人で海外支店のメンバーを神奈川の工場へ案内するような仕事も与えてくれました。

私は本来、社内で貿易事務の作業だけをする立場でした。どうしてそのような機会をくださったのかわかりませんが、たぶん生意気な小娘に業務外のもっと広い世界をみる機会をくださったのだと考えています。これも不思議なのですが、周囲にそれを悪く言われたこともありませんでした。上司も「おまえは誰よりも働くな」といって、映画や展覧会のチケットをくれるような人でした。仕事だけ頑張るのではなく、たくさん良いものをみて感性も磨くように言われていました。鑑賞したものをどう感じたかを週明けに報告すると、とても嬉しそうに目を細めて聞いてくれました。

この社長や上司のように、社会に出てからは目上の大人たちに経験と自信をつけてもらうことがあり、その度に「大人になるまで我慢してきて良かった!」と感じます。それほど学生時代は学校も家も居心地が悪かったし、誰にも理解されない感覚と、自分が嫌いで自信がなかったのです。

アルバイトの経験が宝物だと気がついた

私が配属されたのは、製品以外のサプライと呼ばれる修理用パーツなどを輸出する部門でした。社内でも少人数のチームだけでまわし、急な仕事が多くて先の予定が読めないために忙しくて有名な部署でした。それでも最初の三ヶ月ほどは、早めに帰れるように配慮してくれました。

仕事の内容はアルバイトの頃に経験した貿易事務が複雑になり、海外の支店からの注文をうけて調整するところから現地に到着するまでのすべての工程を管理するようになりました。もしこの仕事がすべて初めて経験するものだったとしたら、私にはとても貿易事務の仕事は出来なかったと思います。アルバイトで覚えたことに少しずつ知識を追加しながら覚えていけたこと、会社という環境に少し慣れていたことが自分を助けてくれたと思います。

そして基本的なこと、例えばコピーのとり方や電話のとり方、書類や文房具の扱い方、タイピングなどの業務に必要なことがわかっていたことで、新しいことに慣れる時間をつくることができたと思います。さらに会社での人とのコミュニケーションのとり方も経験済みだったことが、心に余裕をつくってくれたと思います。

偶然はじめたアルバイトの経験が、ここまで私の人生を助けてくれることになるとはまったく思っていませんでした。振り返ってみると、それを活かして就職をすることに気がついた当時の自分はラッキーだったと思います。

一人暮らしの練習

仕事が忙しくなるまでは、始めたばかりの一人暮らしの練習をする期間にもなりました。当初は疲れている状態ではうまく出来ないことが多くて、休みの日にまとめて家事をしていました。しかしもっと考えて生活しないと、まわらないことがあるとわかってきました。

食材の買い物が難しくて苦戦

家事の中では特に食材の買い物に苦労しました。料理の基本は家政科で勉強していたので、切り方やレシピの言葉でわからないことは少なかったです。しかしスーパーのどこに欲しいものがあるかわからず、肉の部位や魚の種類の違いもわかりません。お店により表示名が違ったり、レシピ通りのものが無いと代わりに何を買ったら良いのかがわかりません。私は強度の色覚異常もあるので色で判断することもできず、スーパーの中で混乱してグルグルと歩き回っていました。

仕事の後は疲れ切った状態でしたが、遅く帰っても食事は惣菜や弁当に頼らず自炊をしていました。その理由もたぶん、学生時代に栄養学を勉強したためにバランスを考えた手作りの食事をとらなければならないという強いこだわりでした。今では疲れたら諦めたり手を抜くことも覚えてきましたが、当時は「やらなきゃいけない」「こうでなくてはならない」といった思い込みが強かったと思います。

ちなみにいまだに知らないスーパーに慣れて、どの商品がどこにあるのかを覚えて入口へ戻らずに買い物ができるようになるには一年以上かかります。特に知らないスーパーへ入ると、混乱して途中でフリーズして疲れ切ってしまいます。

食品と日用品の買い物は思いつく度に紙に書いていますが、メモを書いておいても読み間違えたり、読み飛ばしたりで買い忘れがしょっちゅうあります。メモ自体を出先で無くすことも多々あります。無くしたメモは、自宅に帰ってゆっくり探しても見つかりません。しばらくスマホにメモをしてみましたが、私はもっと買い忘れの頻度があがります。

洗濯と掃除

週末に雨が降ると洗濯ができず着替えが足りなくなって困ったので、週間天気予報を確認して平日の夜にも洗濯をする日を作るようになりました。コインランドリーでお金を使うのは無駄に感じて、選択肢にもありませんでした。

掃除機は土日に晴れたら布団を干す間にかけると楽だとわかって、普段はワイパーをかけて維持するようになりました。

少しずつ覚えてはやることを忘れての繰り返しでしたが、時間をかけてなんとなく私なりの一人暮らしのパターンが出来上がっていきました。家族と住んでいたときは片付けが苦手でしたが、一人で自分のペースで生活ができるようになったら、いつのまにかまあまあきれいに部屋も維持できるようになっていました。誰にも急かされることなく、なんでも自分のペースでできる環境が「自分のやり方」をみつけるのにはとても大切だったようです。

発達障害の傾向がある人全般に思い込みやこだわりが強くて融通が効きにくいところがあり、他人からはスピードが遅くて出来ないことが多いと思われてしまいがちだと思います。その代わりに自分が納得できる方法を自分のペースで身につけることができれば、苦手をうまくカバーできる、もしくは人並み以上にできるようになるのではないかと考えています。何事においても「体の芯から納得すること」がとても重要です。

仕事は大変でも充実

その後は担当することになった海外支店の開始時間に合わせて忙しくなりました。日本時間の夕方から支店がスタートするので、終業間際は最優先の空輸の手配で手一杯になりました。そうなると通常の船便の仕事はできなくなるので、朝は9時出社をして夜間にできない仕事を進め、平均すると夜の11時くらいまで仕事をする日々になりました。今であればブラック企業と言われそうですが、当時は同じような働き方も多い時代だったと思います。私自身も働きやすくて良い収入だったので、会社に対してなんの不満も持っていませんでした。

この仕事は何のためにどうしたらよいのかが解りやすく、「目的とやり方」がはっきり理解できれば成果をだしやすい私に合っていました。日々がんばった結果は、スケジュール通りに貨物を届けることで確認できます。成果をすぐに体感できるから、やりがいも維持しやすいと感じました。

社内を走りっぱなしのような事務職

当時の貿易事務の仕事は、社内を走って他部署の担当者をつかまえて急ぎの仕事を優先するようにお願いすることが日常でした。まだメールやチャットが普及していなかったし、すぐに対応をしてもらわなければ間に合わない内容も多かったので、内線よりも走って探して会って頼んだほうが確実だったのです。

席は自分の机の横にタイプライターをL字において、頻繁に椅子の向きを変えて作業していました。紙ベースで仕事が進んでいたからコピーやファックスをとりに行ったり来たりし、端末も一人一台ではなかったから走って席を取りに行き、はやく終わらせないと迷惑をかけるから急いで入力していました。机を離れていてもたくさん電話がかかってくるから、大声で誰かを呼ぶ声が飛び交っていました。

何をするにも急いでやらないと仕事が終わらないので、私以外にも走っている人がたくさんいました。エレベーターを待つ時間さえ惜しくて、階段を走るのが当たり前でした。とくに私は人よりも頑張らないと成果が出せないことを認識していたから、全力で仕事へ取り組んでいました。周囲も慌ただしいので、私の多動や衝動性はまったく気にしなくて済む環境でした。

事務職なのに運動量が多くて、いつも急いでばかりで心身ともに疲れ切っていましたが、好きな仕事ができて充実していました。

学校と違って会社は楽に感じた

学校とは違い、仕事中は自分のタイミングでトイレや更衣室にいって気分転換ができたし、集中したいときに一気に進めて、集中できないときには簡単な作業ですこしずつ集中するモードへ持っていくように、自分のペースを作りやすいことが良いと思っていました。

学生時代と比べればやりたくないことが少ないし、やりたくなくてもお金をもらっているのだから必要ならやってみようと思えました。どうしても苦手でやりたくない仕事や、なかなか手をつけられない仕事も中にはありました。それもすこしずつ克服して、嫌な感覚を持たないで自然に早くできるようになっていると気がついた時には、自分の成長を感じて嬉しくなりました。

活気のある職場でやりがいのある仕事ができて、充分なお金がもらえて、一人暮らしで家族と離れて暮らすことで自分のスペースが持てるようになり、この頃は自分主体で生きているという実感であふれていました。

発達障害のある人は自由な社風を選んでほしい

私はこの会社で結婚するまで働き、その後は外資系企業出身の人たちが作るベンチャー企業の起業メンバーになったり、紹介で海外のITコンサルの関連会社で働くなど、一般的な日本文化の企業で働く機会はありませんでした。外資っぽい会社を意図して選んだわけではありませんでしたが、自由そうな社風を最優先して決めていたからだと思います。面接や紹介された時に会った人と、会話のテンポなどの波長が合うことも大切にしていました。

一緒に働く人から良い影響をうける環境

転職後は職種もガラッと変わり、経理・総務・人事・財務など主に管理の仕事のリーダーを任され、役員として経営にも携わるようになりました。苦手だったはずの数字の扱いも大きなミスはなく、自分で簿記の資格をとるほど興味を持ちました。勉強が嫌いだったのに、労務の勉強をしたくて社労士の夜間学校へ通ったりもしました。

その頃の私は多少社会で認めてもらい、責任のある仕事を任せてもらえていたと思います。それは学校では嫌われていた個性的な部分が、よく取ってもらえたからだと考えています。大変な仕事量でしたが、私自身も働いていて楽しかったです。周囲に優秀な人が多かったので、仕事の進め方や様々なことを学ぶことができる環境でした。話しや指示が論理的で理解しやすく、私でも迷ったり考え込む時間が少なく済んだと思います。

私個人の経験からくる感覚ですが、海外で生活した人や外資系企業出身の多くはすでに「自分と違う事」に慣れているから「個性を尊重すること」を知っていて、柔軟な感覚を持つ人が多いと思います。年齢や役職が上の人でも、興味深くて面白いと感じる人がいれば認めてくれるところも若い頃の私は嬉しかったです。

ベンチャー企業をやりたいと考える人の多くも、いま無いものは自分でつくろうという柔軟な考えを持ち、今までの古い日本の働き方とは違う会社を作りたいと考える、自由が好きで個性的な人が多いと思います。

そこへ集まってくる人たちも、基本的に自由で個性的、人に優しい人が多いと感じます。全員の過去は知りませんが、そのような人たちの多くも日本の学校や家庭で多少の生きづらさを経験してきたのではないかと思います。だから私も心地よいコミュニケーションが取れたのだと思います。

仕事上では話が早く伝わる感覚、柔軟な思考、仕事のスピード感、程よい距離感の人間関係、プライベートの時間を大切にするところがとくに居心地が良かったです。会社での過ごしかたや仕事の進め方、生きる上で大切にしていることが自分と似た感覚の人が多いと感じました。

充実していたのにどうして私は障害者になったのだろう?

今回の記事は「仕事にめぐまれていたのに、どうして私は36歳で働くことができなくなるほど体調を崩すことになったのだろう」と考えながら書きました。

もしかしたら私は、発達障害の特性を社会でうまく活かしていたのかもしれません。幼少期からうっかりミスが多いことを指摘されてきたので、必ず何回も見直すようにしていました。見直しても見落とすので、間違えやすいところにパターンがあると気が付き気をつけるようにしました。さらに可能であれば他の人にも確認してもらうようにしていました。冗談っぽく、「基本的に自分のことを信用していない」と言って周囲に明るく助けを求めることもできていました。

目的と成果のわかりやすい地道な作業をすることが好きで、慣れて集中する状態にもっていきやすくすれば、それなりに早くこなすことができるところもいかしていました。

「どうして?なんで?」と思ったりわからないことがあれば自ら学ぶので、専門性の高い仕事に向いていたのかもしれません。文章を読むのが苦手なのに説明書とか専門書、法律を読むのは集中できるところも難しい仕事の知識を深めることに役立ったかもしれません。

仕事は成果がわかりやすくて自尊心を満たしやすいし、周囲から褒められたり認められることで自信をつけやすいと思います。もし褒められなくても、誰かの役に立つことをしています。

私の内向的でネガティブ思考なところ、常に自信がなくて反省してばかりだけど解決策まで考えるところ、物事を先の先まで考えすぎるところは、仕事上ではリスクを考えて先のことを想定できると評価されたのかもしれません。

周囲と違う視点で物事をみるので、他の人が気が付かないことや先の予測をして行動できたとおもいます。多動だから行動的に仕事を進めるし、衝動的だから周囲が遠慮するようなことを積極的に変えることが出来たのかもしれません。

そして何よりも、「人が好きなこと」が私を助けてくれたと思います。人が好きで興味をもつから、周囲をよく観察して人の良いところを真似したり、反省したり、人の変化に気が付きやすかったと思います。嫌な感覚をもつ人からも学ぶことが多かったし、失敗から学ぶこともたくさんありました。

最初は自分がしてもらって嬉しかったことを他の人にしてみるようになり、やられて嫌だったことはしないようにして、社会に出てからちょっとずつ成長したのが私ではないかと思います。

しかし育った家庭環境や幼少期からかかえている複雑性PTSDの影響もあり、自分に自信がなくて自分が嫌いなままだったことが身体を壊す大きな要因だったと思っています。自尊心が低くて、自分を守ることを優先できませんでした。

発達障害で傷つくと引きずりやすかったり、うまくいかないことが多かったのだと思いますが、それを知らずに一人で解決していました。自分の特性を知らず、常にもっている力以上のことをしようとしたことで体に力が入ったままでした。頑張るときに歯を食いしばって、呼吸を止めるような身体の使い方も良くなかったかもしれません。ストレスを感じていても、幼少期から緊張して育ち体に痛みもあったから、変化を自覚しにくかったと思います。

恋愛も結婚も離婚もしましたが、私自身はあまりそれで心に傷がついたと感じていません。人を信用しきったり変えようと思わないし、どこか心が冷めているように感じます。それに子供の頃に受けた傷と比べたらどれも大したことではないと感じて、他人事のような感覚があります。一般的にはとても大変なことへの感覚が麻痺していることも、限界がわからなくて自分を追い込む原因だったのかもしれません。心の感覚のどこかが麻痺しているから、自分を傷つけるくらいがんばったり、周囲からは妙にポジティブにみえるのかもしれないです。

常に頭の中も多動で、「やらなくてはならない」と思い込んでいることや「考えなくてはならないこと」に支配され、身体の痛みやストレスで不調があることにも気が付きにくかったと思います。自分のことがわからないまま無理を重ねた結果、三十代半ばの体力がなくなってきた頃に耐えられなくなって、ガクッと心身が壊れたのかもしれないと思います。

連載のまとめ

ここまで連載で書いてきましたが、本来のタイトルである女性特有の発達障害のことや二次障害のことをうまく伝えることができていないと反省しています。 私の文章は自分の特性をあらわすかのように計画性がなく、思いつくことをまとめられずに書き、読みづらいものになっていると思います。文章はうまくならないかもしれませんが、もう少し読みやすくしたいと考えるようになりました。いままでの記事から抜粋し、わかりやすいタイトルをつけてもっと短い記事で個別に伝えた方が伝わりやすいこともあるだろうし、まだ伝えきれていない発達障害の二次障害についても個別に書いたほうが伝わりやすいのではないかと感じています。このままこの連載の形をとるよりも、そのほうが伝わるのではないかと思うのです。

いままで自由に記事を書かせていただいたことで、忘れていたエピソードをたくさん思い出すことができました。無理をすると私のようになってしまうよ、という思いとともに、私が困って工夫したことが当事者やサポートをする皆さん、診断はうけていないけれど発達障害の特性が強めにある人たちに役立つ可能性も感じました。

そこで勝手ながらこの連載は今回の第10回で閉じ、今後は別の形でお届けしていこうと思います。いままで読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

今後も、誰か一人にでも「ちょっと生きやすくなった」と思っていただけるような記事を目標に書いていきます。

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