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2024/12/10:フリーペーパーvol.105発刊!

私はピアニスト!第2話 私の生い立ち

私は鹿児島県鹿屋市で生まれました。未熟児で生まれた私は人より喉が細く、保育器に半年間入っていたそうです。呼吸や嚥下が難しくて食事がスムーズに取れずに体の発達が遅れていたそうで、立てるようになるのも歩けるようになるのも人より遅く、幼稚園の運動会のかけっこでは、みんなが走り終わってもまだ私は半分しか走れていなかったそうです。また、言葉の発達も遅れていたそうです。

小学生の頃の私

小学校に入学したと同時に体が丈夫になれるようにと両親の思いからスイミングスクールに通い始めました。スイミングに通い始めて最初の1年間は、水に顔をつけたり、おもちゃで遊んだりと楽しかったです。学校では友達も出来て楽しく過ごせていました。小学2年生になると、泳げるようになる為の練習になりました。泳ぐ練習をする度に、喘鳴の影響で喉がヒューヒューとなり、みんなと同じ練習が出来ずとてもきつかった事を覚えています。コーチからいつも心配されていました。

高学年になると、学校内でクラスメートから悪口を言われたり、仲間外れにされたり、暴力を受けたりといじめにあっていました。また、自分の体の特徴に違和感を感じ始めていたのもこの頃です。学校では図書館に一人でいる事が多かったです。

そんな中、小学6年生の時、バルセロナオリンピックがありました。岩崎恭子選手が14歳で200メートル平泳ぎで金メダルを獲得する所をテレビで観て感動しました。
「私も人を感動させられるような水泳選手になりたい」
と強く思い、自分の夢が出来ました。その頃私は水泳がみんなより下手で、同学年のみんなと同じ練習メニューについていけなくて悔しい思いをしていましたが、夢を大切にして過ごしていました。

中学・高校生の頃の私

中学・高校生の頃は、水泳部に入り、鹿児島市内・鹿児島県内の水泳大会に出場する機会が多くなりました。出場するも良い結果は残せず、九州大会や全国大会とは程遠いものでした。そのせいなのか部活内やクラス内で「おかま」「気持ち悪い」などの悪口や暴力を受けたりの、いじめにあっていました。

「なんで、私だけ。私って変なのかな?なんで私は、みんなの輪の中に入れないのだろう?」
また「私って女性!?でも、なんでこんな体の形なの?」と、
日々ストレスを感じながら生きていました。とても辛かったです。

唯一、生きる源になっていたのが、岩崎恭子選手みたいな水泳選手になりたいという夢でした。夢を追いかける為に自宅近くの温泉プールで、水泳雑誌を見ながら一人で黙々と練習していました。

大学生の頃の私

私は高校の指定校推薦で私立の大学に入学しました。大学生になると、いじめられる事はだいぶ減りました。もちろん、夢を追いかける為にサークルで水泳部に入部して水泳を続けました。1日に何時間も練習をしたのですが、目立った成績は残せず、全国インカレとは程遠いものでした。

大学3年生の時、1つ転機がありました。M教授との出会いです。教授とお話する事でとても落ち着く事が出来て楽しかったので、毎日のように教授の部屋に行ってました。時には一緒に食事をしたりと楽しく過ごしていました。現在でも、その教授と連絡を取り合う仲です。

大学生となるとオシャレも気になる時期で、
「私もワンピースやスカートを着て歩きたいなぁ〜。なんで、私の体はこうなんだろう。でも、そう思う自分がおかしい。体がこうだから男性として生きていかないといけないんだ」
と自分の心の中だけに抑えていました。

そんな大学生活を過ごして、卒業前にM教授より
「君は、発達障害の特性があると思うから、もし、これから社会で働くことで何か生きにくさや不自由さを感じたら遠慮なく教えて下さいね。いつでも相談にのりますからね」
とアドバイスを受けました。

社会人になって、発達障害の診断!

大学卒業と同時に養護学校に期限付き職員として4年間、老人介護施設に3年間働きました。どちらも、同僚とのコミュニケーションが上手くいかず、スムーズに仕事をこなす事が出来ませんでした。私としては一生懸命に業務をしているつもりでも、臨機応変に出来なくて怠けてると思われたり、みんなとの輪の中に入れなくて大変な思いをしたりでした。老人介護施設に3年間勤めて、体調を壊したのを機に、大学時代のM教授に相談して病院で診察を受けました。「発達障害でアスペルガー症候群」と診断され、
「自分が幼い頃から、周りの人と上手くできなかったのは、これだったんだ」
と思い、安心した気持ちになりました。その時、私は30歳でした。まだ水泳の夢を追いかけて、日々練習を続けていました。そこで障害者水泳がある事を知り、障害者水泳の大会(パラリンピック)を目指して泳ぐ事になりました。

仕事の方は、障害者就労継続支援事業所で働く事を念頭に置いていきました。

34歳にして、性同一性障害の診断!

私は、どうしても誰にも相談出来ない悩みがありました。それは「自分の性別と体」。34歳のある日、新聞に性同一性障害についての記事がありました。私は、その記事を読んで
「私も、これかしら?」
本気で思い、自分で色々と調べました。性同一性障害に関わる方と出会い、大学病院受診して、自分は性同一性障害者なんだと分かりました。診断をもらって、私は今までの辛かった事を思い出してしまい
「これからは、ありのままに自分らしく女性として生きていけば良いんだよね」
と自分に言い聞かせて泣いてしまいました。

私は結婚もしていたので、家族に思い切ってカミングアウトしました。受け止めてもらうまでには、1年間くらいかかりましたが、現在は「仲良し婦婦」として仲良く家族を築いています。

現在の私

現在の私は、高校生の頃から日々、1日に10キロの泳ぎ込み練習を続けてきた成果があって、パラリンピックの出場切符は取れませんでしたが、障害者の水泳日本選手権で大会新記録を獲得する事が出来ました。悔いを残す事なく競泳生活を卒業して、ライターとしてお仕事しながら、ありのままの自分を求めてピアニストを目指している日々です。

第3話は、また後日連載いたしますので、お楽しみに・・・。

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