茨城県取手市の中学3年生、中島菜保子さんがいじめを理由に自殺する事件がありました。市教育委員会は当初いじめの存在を認めず、両親への説明も不十分なものだったといいます。

一方、横浜市では福島原発事故のために避難してきた小学生がいじめを受け、その中で総額150万円を「おごり」としてゆすられたという事件もありました。

社会には「学校に、いじめはあるものだよ」という認識が当たり前のように語られる風潮があります。

はたしてそうなのか、そういって納得していればいい問題なのでしょうか。

学校という閉鎖社会

学校とは、学校という肩書に守られて社会的信用を得た、極めて不安定な要素の強い施設です。

壁に囲まれた密室で、学校以外における社会的経験の少ない教員が自身の授業の良し悪しを精密に査定される恐れもなく教育を行うことが可能な場所です。

教員の独断に終始する恐れを持ちながら、子どもたちの精神的な成長に相応しくない内容であったとしても、教員への注意がその場ですぐに出来ない環境にあります。

私たち市民は、あえて語らずとも互いに守っている市民社会の常識とも呼べるルールを励行することによって、互いの身の安全や心の平静を保ち、不必要な衝突を避けることができているのです。

市民社会の中で教育は進む

いじめを無くすために必要とされる条件からかけ離れた環境に今の学校はありますが、そこで自身の職業を確保し生活の糧となる給料を安定させている教員にとって、本音を言えば変化はあまり喜ばれるものではないのでしょう。

変化することとは新たな条件に対応することであり、教員の仕事が増えることを意味します。

社会の視線から隔絶されることによって守られている教員の社会的立場が市民社会にさらされることで、新たな批判が生まれるでしょう。

その中に、「いじめ」に対する学校や教員の対応に不備があることは連日報じられるいじめ関連のニュースの内容からも明らかです。学校社会という特殊なルールの中でのみ権威を保っている教員は、その信用と権威を多少なりとも失うことが予想されます。

市民常識にさらされない教育の現状

いじめとは、詳細を分析すれば内容的には犯罪です。

そのような、子どもたちによって行われる理不尽な違法行為を内密にさせているのは私たち大人が構成する市民社会です。

教育は教育というカテゴリーに限定された、専門家によってのみ律される社会だと私たちが大人しくしていることが学校の閉塞性を助長しています。

学校内で行われることも一般社会で行われることも、違法性が認められれば等しく処罰の対象となることを私たちが理解し、社会の一部としての責任を学校にも求めなければなりません。

茨城県取手市教育委員会が当初主張していた「いじめの存在は認められない」との見解が、国からの「いじめ防止対策推進法」をもとにした指導によって一転したことからも、教育現場の変化は求めれば可能なものであるとの希望が見えました。

しかし、これから学校や教育行政が大きな方向転換をしたとしても、死んだ生徒は生き返りません。その恩恵に預かるのはいじめの被害とは無関係な、いじめていた生徒たちの側です。

その方向転換も実現するのか、保証はありません。

取手市の矢作進教育長が文部科学省からの指導に基づき文言を撤回したことは、多くの関係者や事件に関心を抱いた国民の心理をむしろ逆撫でしたことでしょう。

学校からいじめを無くすために出来ることは、学校、教員、教育関係機関を、まず市民が自分たちの社会と何ら変わらない普通の市民や組織であると認識することです。

次に、いじめという用語を無くし暴行傷害という具体的な犯罪名でしっかりといじめ行為を呼ぶこと。

それから、学校の閉塞性を無くすためにも頻繁に学校内の状況を査定できる制度を作り、学校がその内部をつねに社会に晒される環境にすること。

教員は教育者ではなく公務員であり、学校は公的施設なのだから、一般市民が介入しづらいシステムで動いていることの方が、むしろ不自然なことだと認識されるべきでしょう。

日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。それは、学校に関する異常な「あたりまえ」の感覚が一般大衆に根強く浸透してしまっているからである。この「あたりまえ」の正…gendai.ismedia.jp

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