Aさんに冷淡、無関心な僕ら親子
「またAさん、スーパーの前歩いとったわ~」と母。
「そうやったか~」と同調する僕。
僕たち親子は近所に住んでいるAさんに冷淡です。
Aさんは僕たちと同じ集合住宅に住む一人暮らしの孤独なお婆さん。身寄りもありません。
でも、僕ら親子はそんなAさんに全くの無関心。全部、他人事。
皆さんもそんな僕らのようなケースに心当たりはありませんか?
他人事と自分事
あの、皆さん、物事をとらえるとき、二通りのパターンがあると思いませんか?
一つ目が、他人事として、突き放してとらえるとき、
二つ目が、自分のことのように、引き受けてとらえるとき。
この二つは同じとらえかたでも熱量が全然違います。
すべて他人事な年配のご婦人
僕がそんなことを強く感じたのが、とある読書会に参加したときのことでした。
その会は皆で自分のおススメの本を紹介する会でした。
僕より少し上くらい(僕が52だから50代後半でしょうか)の読書会ベテランのご婦人が紹介していた本が、男女参画センターから借りてきたという韓国の児童ポルノの実態を紹介した本。
その紹介の中で彼女は熱弁をふるっていました。
統計的に児童関連の犯罪の何パーセントがポルノとか、具体的な犯罪のメカニズムとか。
しかし、僕には彼女の話がいかに自分がそういった国際的な問題に見識があって、教養があるか、ということを語っているように見えました。
彼女自身、その本当に被害にあった子供たちに寄り添っていないというか。
だから彼女の口から出る言葉は、その本質的な被害者の心情の外側の出来事を延々と語っているように感じ、僕にとってはつまらない、単に知識をべらべらしゃべっているだけのものに映りました。
自分事としてとらえる若い女性
もう一人の若い20代後半くらいの読書会には初めて参加したという女性が紹介していた本は村上春樹の「アンダーグランド」という本でした。
これは作家の村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者と、オウム真理教の加害者のインタビューをまとめた本です。
彼女は自分の言葉で語っていました。
それはたどたどしいものでしたが、自分が被害者だったらどう感じるかということを中心に語っていました。
多分、自分だったらそんな思いもよらぬことが、わが身に起ったらとまどうだろう……。そして悲しみ、オウムを恨むだろう……などと。
彼女はそんな本の中のインタビュアーに自分を重ね合わせているように見えました。
紹介が終ったあと、彼女の話にじーんときたことを思い出します。
まとめ
この二つのとらえ方はどちらも生きていく上で必要なものだと思います。
何ごとも自分ごととしてとらえていては、世の中で立ち回れなくなると思います。
しかしすべてを他人ごととして、とらえてしまうのはいかがなものでしょうか?
他人の痛み、つらさ、悲しみに共鳴してわがこととして受け止めること。
それは人と人とがつながったり、結ばれたりする上でとても大切なことなのではないでしょうか?

