「ネガティブ・ケイパビリティ」とせっかちな現代人の僕
セカセカした自分。
コスパやタイパばかり考えて、何でも早く処理して、サクッと結果を出す。
スマホで同時並行的に皆がつながった現代ではそれがもてはやされているように思います。僕もそうです。
しかし、逆にそれでは何か大切なものが失われてしまう気がするんです。
知人の女性に聞いたある言葉によって僕はそれを強く感じるようになりました。
この記事を読んでいる皆さんはどうでしょうか?
急かされる毎日の中で、何か心に潤いを失っているようには感じませんか?
せっかちな今までの僕
僕は自分のことをせっかちですぐに結果や結論を求める人間だと思っています。
早口で話題の量の豊富な人のことを優れた人だと思ってリスペクトしていました。
しかし、僕が最近他人と話していて思うことは、最初はある話題について自分の見解や意見を機関銃のように相手に浴びせかけても、ストックがなくなってしまうと、その後の相手との対話が続かないということです。
そして、それ以上にその話題について、相手が何を思って何を感じているのか、ということを全然聞いていないということ。
これでは建設的、あるいは創造的な会話に全然なっていません。
いや、それ以上に普通の会話として成り立っていないと言えます。
ネガティブ・ケイパビリティとの出会い
ある女性の友人から「ネガティブ・ケイパビリティ」のことを聞いて僕が連想したのはそういうことでした。
これは平たく言えば、
ある問題が起こった時に早急に結論や結果を出そうとするのではなく、じっと待つこと、ゆっくり考えること、
という風に僕は捉えています。
ちょっと趣旨からは逸れるかもしれませんが、どんなに自分自身の考えや意見が優れていると自分では思っていても、それよりも相手からの反応や返答をゆっくり、じっくり待つ。
そんなことをこの概念は教えてくれているように僕は思いました。
母を待てなかった僕
先日、繁華街の本屋に来年度のカレンダー選びに母と行動を共にした時のことです。
イングリッシュガーデン、小さな花のある風景……etc.母は写真を見てどのカレンダーにするか、見回っていました。
せっかちな僕はそれにイライラして、母の「どれがいい?」という質問にも「は?」とか「ああ!」などつっけんどんに答えていました。
そんな僕を見て、母は「また来店した時に選ぶから」と早々に切り上げて帰りました。
今にして思えば老いた母に辛く当たったと思います。
残りの人生もいつまでか分からない母は思い出作りに僕とのその時間を大切にしようとしたのだと思います。
ネガティブ・ケイパビリティとは少し違うかもしれませんが、そんな人生の余白。それはせっかちだったり、合理的は尺度からは計れないものです。
なかなかせっかちで自分自身が合理的だと思っている僕には難しいことですが、そんな身内の母とこれからは少しでもそんな家族としての時間を大切にしていこうと思います。
まとめ
ある問題が起こった時、僕を含めた現代人はすぐ結論を出そうとします。
しかし、そこで踏み止まって、じっくり待つこと、ゆっくり考えること。
皆さんはネガティブ・ケイパビリティという言葉の意味を聞いてどう感じられますか?
僕のようにあまり分かったり、実践したりしていない人、あるいはその逆で、そういった考え方を大切にしている人、いろいろな人がいるとは思いますが、この忙しい現代においては、少し頭の片隅に置いてもいい考え方なのではないか?と思います。
僕のような、せかせかした皆さん、すこしゆっくり歩いてきませんか?

