金木犀の夜
エッセイ
一般企業で働いていた頃、職場の女の子から四つ折りにした一枚のティッシュを渡された。
私が「ん?」 みたいな顔をすると、「鼻に近づけてください」と言われたのでそうした。とてもいい匂いがする。ティッシュを開くと、中から枝とも花ともいえない植物が数本出てきた。
「金木犀です。いい匂いでしょ」と笑った。きゅん。私が“職場の人には何故だか絶対に惹かれない”という謎の性格でなければ、絶対に好きになっている、と思った。
その日の仕事終わりに、帰宅してアパート(2階)のドアを開けようとすると、どこかで嗅いだいい匂いがする。そういえばここ最近この匂いがしていた気がする。
何気なくあたりを見回すと、すぐ近くに金木犀の木が生えていた。デスティニー、と思ったけれど、良くも悪くも“職場の同僚”は恋愛対象として見ることがない。
その1ヶ月後に、今度は紅葉をくれた。そして翌年の4月には、また四つ折りのティッシュをくれた。中を開けると綺麗な桜の花びらが何枚も入っている。
「きれいなのを選んだんです。意外に見つけるのむずかしいんですよ」と笑った。
ああ、多分、職場の子でなかったら恋に落ちて、2年間で3回くらい告白して振られ、結果ストーカーになってしまうくらい好きになるな、と思った。よかった、ストーカーにならなくて。
だが、予想外のことが起こる。5か月後に女の子が会社を辞めたのだ。そうなると話が変わってくる。私が女の子を好きにならなかった理由は“職場の子”だったからだけだ。
どうしよう、ストーカーになってしまう。彼女が職場を辞めて3週間後、つまり初めて金木犀を貰ってから1年後に、私はストーカーにならないために彼女をデートに誘った。
デート中、映画の話になって、彼女の口から『アメリ』の話題が出た。私はその映画の中の好きなセリフを言った。
――タイミングとは自転車レースの観戦と同じようなものだ。待っている時間は長いのに、過ぎ去るのはあっという間――。私はこのセリフが大好きだった。
女の子は一瞬驚いたような顔をして、迷った顔をしたあとこう答えた。
「そうなんです。そういうことだったんです」
言外に「タイミングはもう過ぎ去ったんです」という言葉が含まれているのがわかった。そういうのは直接言われるより何倍も伝わるものだ。
だから彼女と会ったのはそれきりだ。なんとなく取っておいた金木犀も紅葉も桜の花びらももう干からびていた。
“匂い”というものは記憶に直結しているからやっかいだ。
後日譚
昨日の夜中、どこかで嗅いだことのあるにおいで目が覚めた。においの元を探すと、私の脇に行き着いた。いやだわ。
私は、妖怪「寝いている間に脇をくさくさせ」が現れたのだといい聞かせ、泣きながら眠る。
このエッセイの着想を得た映画
『アメリ』2001年公開のフランス映画。