『春、バーニーズで』吉田修一/著
エッセイ
レイトショーを観に行くことになった。気になっている女の子とである。
観に行くのは外国の戦争映画だったから、いい雰囲気からはかけ離れてはいるが、ドキドキハラハラの展開の映画のようだったので吊り橋効果も期待できる(題材は戦争ではあるもののどこかユーモアも交えたアクション映画という分類のほうが近かった)。
しかも映画が始まるのは23時過ぎ。女の子の提案でその時間までは落ち着いた居酒屋でご飯を食べながらお話ししましょう、となった。
総合的に判断して、悪くない。全然悪くない状況だ。
2人で少しだけお酒を飲み、ほろ酔い気分で映画館へ。その日は平日の夜で、映画も公開終了直前だったこともあり観客は私達を除くと2~3人だった。席も離れているので映画が始まるまではささやかな談笑を続けても差し支えない。とてもいい雰囲気だ。
お互いシフト制で明日は2人とも休み。総合的に判断して、かなりいい状況だ。
そして映画が始まる。
冒頭、私は映画よりも隣にいる素敵な女の子の方が気になっていた。しかし開始15分と経たないうちに映画にのめり込んでいった。とても面白かったのだ。
なかなかに引き込まれる内容が続いていた中盤にさしかかる頃には、私は身を乗り出して食い入るように映画に見入っていた。直後、私はひどく後悔することとなる。
唐突におみだらシーンが始まってしまったのだ。どうしよう。変に意識して身を引くのも変だし、ずっと身を乗り出しっぱなしというのも変だ。異常に興味がある人と思われてしまう。
たいして重要なシーンじゃないしすぐ終わるだろうと高を括っていたらこれが結構ながかった。そのシーンのあいだ中、私の脳内ではある小説の一節が浮かんでいた。
ーー三十分の遅刻なら、どんな言い訳だってできる。一時間の遅刻でも、なんとか言い訳は考えつく。ただ、三時間となると、もう言い訳では足らなくなり、そこに「ある物語」が必要となるーー
吉田修一の『春、バーニーズで』という短編集の一節だった。
気まずいシーンを食い入るように見つめている(ように見えているだろう)自分について考える。もし30秒身を乗り出しているだけならどんな言い訳だってできる。1分間であっても、なんとか言い訳は考えつく。ただ、3分も見入ってるとなると、もう言い訳では足りない。そこにはある物語が必要だ。
結局そのシーンは5分近くあった。体感的には3時間くらいだった。
しかし気まずいシーンが終わり、映画自体が終わっても、私は「おみだらシーンを身を乗り出して食い入るように見続けないわけにはいかなかった男の物語」がどうしても見つからなかった。
女の子が、楽しそうに観ていたねと真顔で言う。そうじゃない、そうじゃないんだという言葉をぐっと飲み込み、私は女の子に「またね」と告げ帰路につく。モテる男への道はまだ遠い。
このエッセイで紹介した本
『春、バーニーズで』は、吉田修一のデビュー作で短編集でもある『最後の息子』の表題作、「最後の息子」の続編です。『最後の息子』は短編集ですが、『春、バーニーズで』は連作短編集です。
『最後の息子』は主人公とオカマ(と作中であえて表現されています)の閻魔ちゃんとの青春群像で、『春、バーニーズで』は10年ほど歳をとった主人公のその後の話です。気が向いたら是非どうぞ。
『春、バーニーズで』吉田修一/著
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