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2024/10/10:フリーペーパーvol.103発刊!

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」 第八回(短大生後編)

みんなが知っているのとはちょっと違う「女性の発達障害」

私は、50歳で発達障害の診断を受けました。ADHD(注意欠陥/多動性障害)、そしてASD(自閉症スペクトラム障害)の傾向も多少みられるという診断で、すぐにADHDの治療薬を使い始めました。幼少期に発達障害の専門医受診を検討されたこともありましたが、結局は治療やサポートを受けること無く生活してきました。

今回は前回に引続き、私が短大生の頃のことを書きます。初めて学校で学ぶことが楽しいと感じ、アルバイトでは会社で貿易事務を学び、居場所ができて自分に少しずつ自信がついてきた頃です。成人前後のことなので、記憶している内容がこれまでよりも具体的になっていると思います。周りの人や状況に合わせることで発達障害に気がついてもらえず、サポートを受けずに成長して、「発達障害の二次障害」を発症するまでの自分史のような要素も強いですが、発達障害の人もそうではない人にも共感してもらえたり、身の回りに同じような人がいたらどのような感覚なのかを少しでも知ってもらうきっかけになれば嬉しいです。

おそらく50歳で発達障害の診断を受けるなんて、どうして必要なの?と思われるかもしれません。しかし私自身は診断を受けたことで、とても楽になりました。いままでのたくさんの困ってきたことの理由と改善方法が、具体的にわかってきたからです。そしてADHDの治療薬も合っているようで、行動に落ち着きがでて生きやすくなったと感じています。

発達障害は幼少期にわかるケースが多いのですが、特に女性では現在の診断基準とは違った見え方がすることもあり、幼少期に気が付いてもらえない場合があるようです。しかしそのまま成長してしまうと、周りの人と同じようには出来ないことが多くあり、家族や友人との人間関係がうまく築けず、自分を責め続けて二次障害と言われるウツなどの心の病を発症する原因になってしまいます。私が発達障害の診断を受けたのは、長いこと良くならない自分のウツ症状や不眠が、この二次障害である可能性を考えたからです。

発達障害は「害」という言葉のネガティブなイメージを避けるために、「発達障がい」または「神経発達症」などへ呼び方が変化していますが、ここでは現在一般的に知られている「発達障害」という言葉を使います。

これまでの記事はコチラから

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」
https://tinyurl.com/2g8cqtf4

家政科で学ぶことが特性に合っていた

私が幼少期から勉強に苦手意識があったのは、将来に役立つことだと思えず、なぜそれを勉強するのかわからないことも大きな理由でした。物事を何のためにするのかと、それが本当に必要なのかが納得できないと、「意味のないことはやりたくない」という強いこだわりで拒否してしまいます。家政学は家庭科のさらに本格的な内容をイメージしていただくとわかりやすいと思いますが、人間が生きるために直接役立つことを学ぶことができます。私にとっては、学ぶ理由がわかりやすい学問でした。

私は家政学へは文系のイメージを持っていましたが、文系というよりは理系の学問に近く、今では「生活科学」とも呼ばれるようになっています。白衣を着て実験のデータを取ったり、薬剤を配合したり、分子構造を覚えたりもします。そして洋服を作るのも料理を作るのも、計測や割合を覚え、数字で仕上がりを想定する必要があります。家政学の一般教養の講義では、理数系の授業も選択しなければなりません。

本来私は、数字も理数系も苦手だと思っていました。しかし後に社会人になってから、簿記や医療事務の資格を取り、仕事で数字をパソコンで扱うようになると意外と得意なこともわかりました。

短大家政科の授業

短大の家政科被服学を選んだのは、洋服を作ることが中心で教科書を読んで覚える勉強は少ないだろう、という安直な考えからでした。しかしそれは大きな間違いで、私が専攻した家政科の場合、一年目は一般教養の「選択科目」と必修の「家政学全般」と「被服学」の基礎を学びました。二年目は、「家政学全般」の掘り下げた内容と「被服学」を深掘りする流れでした。

大学には選択授業があるので、受けたい講義を選ぶと授業と授業の間に空き時間ができたり、土曜も行かなくてはなりません。大学生活を楽しみたい人にとっては、その時間が大切なのだと思います。私は空き時間を無駄な時間だと考えて、アルバイトの時間をできるだけ作ることを優先しました。一回の登校で、可能な限りまとめて受講できるように苦手な講義も選び、土曜日は大学へ行かないで済むように選択しました。大学により違うと思いますが、私の通った短大は高校と変わらないくらいに講義数が多かったので、土曜を休みにするとギッチリ授業がつまりました。

一般教養の講義で得たこと

短大では、大学ならではの一般教養の講義もあります。一番興味があって印象的だったのは、心理学でした。心理学の授業を受けていると、自分や身近にいる人に当てはまる事も多く、もっと深く勉強をしてみたいと思いました。

ある日、心理学の授業で何かの心理テストを受け、その結果をみながらそれぞれの性格の傾向を解説する講義がありました。私の結果は、「反社会的行動や犯罪を犯す傾向が強い」という文言のある内容でした。小学五年生で希死念慮(自殺したい気持ち)を持った頃に、両親を殺そうという考えも浮かんだし、中学生の頃に担任から「会話が破壊的」と言われたことも思い返し、何となく自分らしい結果なのかもしれないと納得しました。結果をみてからは、感情的になって犯罪を侵さないように気をつけよう、と思ったので役立っているのかも知れません。

その頃はまだ深夜に号泣して、眠れないほど母親との関係に苦しんでいました。いつか発狂してしまうのではないか?と感じていました。むしろ発狂して、何もわからなくなってしまいたいと思うほどでした。実家はとても居心地が悪くて、できるだけ母親と関わる時間を減らしていました。当時は精神的な病の知識が何もなかったので、自分ではどうしようもない状態にならないと精神科へは行けないと思い込んでいました。とにかく、「頭がおかしくなりそうで限界」という言葉で自分の状態を感じ取っていました。誰にも相談ができなかったので、心理学の教授へいつか自分のことを相談したいと考え、タイミングをみて授業の終わりに話しかけようと思っていました。結局は勇気が持てず、話すことは出来ませんでした。もし話してその教授から精神科の受診を薦められても、親に言えず病院へは行けなかったと思います。

でも心理学を少し勉強したことが、精神科での言葉や検査の目的がわかりやすく、心理学の本や認知行動療法の勉強にも抵抗なく興味をもてたので、とても役立つことになりました。

家政科の勉強はそのまま人生に役立つ学問だから受け入れやすかった

家政科では、どの専攻でも「家政学一般」とよばれることも学びます。食物学、栄養学、食品衛生学、食物史、調理学、生活科学、住居学、色彩学、デザインなどです。私は色覚異常もあり、色がわからないことで苦労することを心配していましたが、わからないことをオープンにして先生やチームを組む人に助けてもらっていました。色彩学のテストでは、「色盲だからわかりません!」と大きく解答用紙に書いて提出したら単位が取れました。自分がどんなに努力しても周りと同じようにはできないことがある、ということを多少受け入れやすい性格は、色覚異常での経験も役立っていると思います。社会人になってからは、自分が苦手なことや自信が持てないことを隠さず、周囲に助けてもらっていました。

食物や栄養関連の勉強は、教科書を読んで知らないカタカナの言葉や分子構造を覚えなくてはならず、教科書を読むのがとても大変でした。それがなんとか落第しなかったのは、幼少期から「家庭の医学」という辞書のような厚みのある一般向けの医学書を読むのが大好きで、身体のしくみや必要な栄養のことを少し解っていたことが役立ったのかもしれません。もともとそんな本を何度も読むほど身体に興味があったので、難しくても何とか単位を取れたのだと思います。食物学の試験では、菌の名前などが覚えられませんでしたが、試験中は教科書を持ち込んで受けられたので助かりました。

そしてこの頃に学んだことが、後に私の人生にとても役立っています。2年前に食物アレルギー(主にグルテン)でアナフィラキシーショックを起こし、食事の改善のために栄養のことや身体の仕組みを勉強することになったからです。特に栄養学は、日々新しい情報へアップデートされ、当時習ったことが実は違うということも今ではあります。でも基礎を解っていることで、医師や薬剤師との会話も理解しやすく、ネットの情報も自分である程度の取捨選択ができます。いまでは栄養士の仕事の幅も広いので、私も学生時代に栄養士の資格を取っておけば良かったと思うほど興味があります。

被服学の授業は課題ありきで進む

被服学では西洋被服史、デザイン、染色、和裁、洋裁、編み物、刺繍、染み抜きの実験…と実技の講義が多く、教室の雰囲気も和気あいあいとしていました。急いで作品を進めるためには、とりあえず近くにいる人が誰だかわからなくても話しかけて、「ここはどうやるって言っていた?」「こうやってて合ってる?」などと確認し合いながら進めることになります。気軽に、人との一体感を感じる会話ができました。学校が楽しいと感じたのは、短大のこの頃が初めてでした。実技の講義は決められた時間は自分のペースで進められて、席を立って自由に動いてもいいし、好きな姿勢で作業ができて、人と会話をしながらでも良かったので、私の多動の特性やマイペースなところにあっていたと思います。

作品を作る授業は、講義で習ったところを次の授業までに自宅で作って進めます。作品を作る宿題を「課題」といい、洋裁の課題をしなくてはならない時に家のミシンの調子が悪いと、朝まで何度もやり直して寝る時間がなくなる事もありました。もともと裁縫が好きで生真面目なところもあるので、途中で投げ出して作品の提出期限に遅れることはありませんでした。しかし寸法通りに切ったはずの縫い代の幅がバラバラだったり、袖の長さを間違えて裁断していたり、表裏を間違えて縫ったりと、何度も見直して慎重にやっているつもりでも間違えていることが多く、自分でも不思議で仕方がなかったです。もちろん実技以外の勉強もありますから、家でやらなければならないことが山積みの状態でした。「短大被服科はうちの大学で一番大変」、と聞いていた理由が身を持ってわかりました。

家政学は考えていたよりも奥深くて難しい学問でしたが、生活をする上で実際に役立つことをたくさん学ぶ事ができました。私の「勉強の目的がわかると理解しやすい」という特性に対して、「何に役立つことを学んでいるのか?」がとても解りやすいのが家政学でした。当時は必死で大変でしたが、実生活に役立つ家政学を学んで良かったです。

アルバイトを優先した結果、自分に合う道がひらけた

大学の授業が無い時は、出来る限りアルバイトをしていました。家族に自分の事を理解してもらうことや、やりたいことを応援してもらうことは諦めて、自分が自由に好きな人生を歩むためにアルバイトを頑張ってお金を貯めました。

高校から続けていたコンビニのアルバイトを辞め、パン屋のアルバイトをして種類が覚えられず一日で辞め、次にデパートのバッグ売り場で販売のアルバイトを始めました。両親に「接客に向いている」とよく言われていたので、自分でもそうかと思って始めてみたら、女性ばかりの環境でトゲトゲしているし、接客をすればものすごく神経がすり減るし、立っているだけで身体中が痛くてきついし、プレゼント用の梱包を頼まれたら失敗を繰り返すしで、全く向いていませんでした。二ヶ月程でデパートも辞めて、大井埠頭の倉庫のアルバイトを始めました。そこでは倉庫の在庫から、指示書に従って商品を選んでダンボール箱に入れて梱包する、「ピッキング」という作業をしました。この一人で黙々と倉庫内を歩き回って数をこなす作業と、男性が多い環境が私にはとても楽でした。ほとんど人に気を使わないで済むし、頑張ったらその分の成果がわかりやすいからです。周りもちょっと癖のある変わり者が多くて、「人は人、自分は自分、やることをやれば良い」という雰囲気がとても合っていました。

学生時代に自分に合う仕事に出会えた幸運

ADHDは「単純作業が苦手」といわれますが、単純と言っても変化のある作業であったり、自分に合った環境で、慣れるまで自分のペースでできる時間をもらって習得すれば、精度の高い能力を発揮できると思います。

倉庫のアルバイトは、海に近い倉庫街という雰囲気や環境が好きな私にはピッタリでした。乗り物も好きなので、コンテナやフォークリフト、船とか飛行機もみれて、大きな駐車場で車やバイクもじっくりみれて、通うのが楽しくて仕方がない場所でした。作業服とかドカジャンも着心地が良くて、自分の好きな服装で作業ができました。自分の作ったダンボール箱が、そのまま開けられずに海外へ行くというワクワク感もありました。やっと自分の居場所ができた感覚もあり、とにかくシフトを入れまくって働きました。時給も高かったので、面白いように貯金も増えていきました。

そして倉庫でのアルバイトが一年近く経った頃、所長から「2階の事務を手伝えば時給をもっと上げるよ」と言われました。同じ倉庫内にある事務の仕事は、英文で通関書類を作る「貿易事務」と呼ばれるものでした。そのような仕事が世の中にあることは知らずに始めましたが、すでに趣味でタイプライターやパソコンを触る機会もあり、どのような書類を作るのかを丁寧に教えて貰い、見本をみながらやれば抵抗なく作成出来るようになりました。もともと日本語よりも英文のほうが読みやすくてスペルミスが少ないこともあり、苦手意識を持たずに楽しんで書類作成を覚えることができました。正社員の中にアルバイトは一人でしたが、人生で初めて会社という環境で働き、貿易事務というちょっと特殊な職種を自然な流れでスタートすることができました。通関全体の流れを理解するのには時間がかかりましたが、一年経つ頃にはミスも少なく早く自発的に行動できるようになりました。

たくさん種類のある英語の書類を繰り返し作り続けて、ミスをしないでスピードを上げることを目標にしていました。必要な換算表やよく出てくる文言をボードにまとめて、ひと目でわかるように机に置いて作業をしたり、時間のある時に共有する道具を整理して使いやすくしたり、事務所内の置きっぱなしのものを捨てておいたり、作業を効率化していく工夫を、自分のペースで身にけることが出来たことが私の特性にとても合っていたと思います。そして「会社」というものを、学生の早い段階で長期的に経験できたことも恵まれていたと思います。電話の取り方やコピーの取り方、マナーやコミュニケーションの方法、さらに専門的な貿易事務と海外物流の仕組みも学ぶことができたので本当にラッキーでした。人間関係も、倉庫内でピッキング作業をしていた頃から知っている人達の中で始められたので、環境の変化が少ない状態で始められたことも良かったです。

英語を使う職場のため海外に住んでいた人も多く、取引先も外資で、個性的な人も尊重される自由な風土であることも私に合っていました。会いたくないほど嫌な人もいましたが、自分のことを認めてくれる人達にも出会えたので、辞めたいとは一度も思いませんでした。もともとは「会社」というものに抵抗があり、自分はつまらない大人になりたくない、会社で働くのは合わない、会社勤めなんて退屈、と先入観で嫌っていたものを、「仕事って学校と比べたらすごく楽しい!」と自然に受け入れるきっかけになりました。

充実して短大を卒業も、やむなく計画変更

二年生になると、短大の同級生は就職活動を始めていました。私は就職をしないで海外の大学へ編入すると決めていたので、全く就職活動はしませんでした。母は「短大さえ卒業してくれたら後は好きにしていい」と言うようになっていました。実際にはその後も母のコントロールは続いたのですが、不思議と就職に関しては何も言われませんでした。この頃は高校の同級生から紹介された、他校の生徒ともバンドを組んでいたので、ギターの練習やバンドのライブ活動をし、アルバイト、学校の課題の多さで常に睡眠不足。出欠重視の講義は、一年生で落第したものもありました。途中カンニングをする人達に巻き込まれて停学にもなりましたが、なんとか無事に短大も卒業することができました。

しかし短大卒業を控えた年の1月、湾岸戦争(砂漠の嵐作戦)が勃発してアメリカへの渡航はテロの危険があるといわれて制限されるようになりました。その年の夏にアメリカへ渡るつもりでいた私にとっては、大きな計画の変更が必要でした。すでに貯金は計画通りに進んで株でも増やし、留学先の大学も決めてやり取りを始めていました。しかし、不安定な国へ留学をするには無謀な時期でした。戦争自体は長引かなかったものの、渡航制限や治安の悪化もあり一年延期することにしました。そのまま貿易事務のアルバイトを続けて、あと一年だけ実家に居ることも我慢することにしました。

短大時代まとめ

短大の勉強は大変でしたが、結果として生涯役立つ好きなことを学ぶことができました。そしてアルバイトでは、自分に合った環境で「会社」というものを気負わずに学生で経験することができました。この後もお仕事では、自然な流れで自分に合った環境を選んだり作ったりすることができました。

苦手なことや得意なことは、本人も家族も先入観をもっているので意外とわからないものです。それを知るには、本人が抵抗があるものにもちょっとだけ我慢して挑戦してみる好奇心や、失敗しながらでも続けてみる忍耐力をつけることも必要だと思います。無理強いは心の傷になるので良くないですが、まずはやってみよう!という心の強さを育むことで、予想外の事が合っているとわかることもあります。それは発達障害がある人でも、そうでない人でも、必要だと思います。

成人以降の私は、周りの人に助けてもらいながら、自分に合ったことを自然と始めることができる幸運に恵まれました。機能不全家族で育ち、人間関係に悩んできたけれど、社会に出てから知り合った人達にはとても恵まれています。私は、社会に出てから周りの人たちに育ててもらったと思っています。人としての生き方からマナー、仕事のことや遊び方まで様々なことを教えてもらい、幼少期から大嫌いだった「大人」の中にも、素晴らしい人達がいることを知りました。いまも新たな出会いを続けて、まだまだ学びながら成長していると感じています。

この記事を書いている今、発達障害の診断を受けてADHDの治療薬の服用を開始してから10ヶ月ほどになります。この間に、私の生活環境はガラリと変わりました。環境の変化に弱くて、新しい場所に慣れることにとても時間がかかることは自覚しています。5ヶ月経っても、まだ自分の部屋にも慣れず緊張感があります。でもゆっくり慣れていくことが少しずつ楽しみを増やしていく喜びに繋がるということも、過去の経験から知っています。だから焦らず、人と比べず、自分の生きやすさを優先しながら出来ることからやってみようと思っています。これから出会う人達も楽しみだし、いままで出会った人達も、自分が思う以上に気にかけてくださっていることも知りました。あまり人間関係には積極的ではないけれど、人との出会いが私の人生を豊かにしてくれています。一人で頑張ろうとし過ぎず、もっと甘えても良いのだと感じています。

では次回からは、診断を受けず社会に出てどのような悩みがあったのか、私の発症した発達障害の二次障害について、また男性と女性の発達障害の違いや大人になってから診断を受けることのメリット・デメリット、日常生活や仕事で工夫してきたことなどを盛り込んで紹介していく予定です。

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