みんなが知っているのとはちょっと違う「女性の発達障害」
私は50歳で、発達障害の診断をうけました。ADHD(注意欠陥/多動性障害)、そしてASD(自閉症スペクトラム障害)の傾向も多少みられるという診断で、すぐにADHDの治療薬を使い始めました。小学5年生で発達障害の専門医受診を検討されたこともありましたが受診にいたらず、成人後は一般の会社で働いていました。しかし30代半ばからウツや摂食障害などの不調が続き、長いこと良くならないため40代で福祉を受けることになりました。
連載が六回目となる今回は、第五回に続いて高校生の頃のことを書きます。様々なエピソードから、女性特有の発達障害の特性があらわれていると思います。私には家族関係でのPTSDもあり、もちろん全てが発達障害から来る特性とは言えません。しかし発達障害のある一人の女性がサポートを受けずに成長した場合、どのような問題と向き合って発達障害の二次障害といえる症状を発症することになるのかを知っていただけると思います。
そして今更なぜ発達障害の診断なんて必要なの?と思われる年齢だと思いますが、私自身は診断を受けたことでとても楽になりました。いままでのたくさんの困ってきたことの理由と改善方法が、少しずつわかってきたからです。そしてADHDの治療薬も合っているようで、行動に落ち着きがでてきて生きやすくなったと感じています。
発達障害は幼少期にわかるケースが多いのですが、特に女性は現在の診断基準では違った見え方がすることもあり、幼少期に気が付いてもらえない場合があるようです。しかしそのまま成長してしまうと周りの人と同じようには出来ないことが多くあり、家族や友人との人間関係がうまく築けず、自分を責め続けて二次障害と言われるウツなどの心の病を発症する原因になってしまいます。私が発達障害の検査を受けたのは、この二次障害である可能性を考えたからです。
発達障害は「害」という言葉のネガティブなイメージを避けるために、「発達障がい」または「神経発達症」などへ呼び方が変化していますが、ここでは現在一般的に知られている「発達障害」という言葉を使います。
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診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」
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ざっくり
家族関係に悩み、睡眠障害の高校時代
高校生になっても家族関係は居心地が悪いまま、特に母からの暴言は続いていました。小学生の頃から、明け方まで眠れない日も多くて「自分の何が悪いのだろう?どうしたらわかりあえるのだろう?」と繰り返し考えていました。高校は宿題が多くて、勉強と音楽の練習ためにただでさえ寝る時間が少なかったので、精神的に疲れ切って「もう限界かな」と感じていました。母に言われた言葉が頭から離れず、泣いて眠れない日が多かったです。
でも自分に発達障害があるとわかった今は、母にも発達障害の特性が強く出ていたと考えてみると様々なエピソードが納得できて、むしろ私を育てるのが大変だっただろうと納得できるようになりました。
母との関係に葛藤する日々
子供の頃から毎晩、「親にこのようなことをされ続けるのは、自分のどこを変えたら良いのだろうか?」と考えながら自分を責め、「あの時にこうすれば良かったのかな?」と反省してきました。次の時はどうしたら良いのかをあれこれ考えて試し、「冷静に話し合おう」と伝えてみても「話し合うことなんかない!」と怒鳴り返されるだけだし、「何様のつもりだ!」と言われたら「え、お子様?」とトンチンカンな返事をして怒られるだけでした。高校生になる頃には身体への暴力は少なくなりましたが、「親は子供を大切に思っていて、間違えたことをしない」と信じたい気持ちや、解りあいたい気持ちと、現実に起こることとの間で葛藤していました。
栄養もカロリーも足りない食事
睡眠障害と同時に、食事にも問題があったと思います。子供の頃から基本的に、朝ごはんは甘い菓子パンと牛乳でした。実家で朝ごはんで和食を食べたことは、一度も記憶に無いです。高校生の頃は、テーブルに置いてある甘い菓子パン2個を一人で食べて登校し、お昼ごはんも食べず、もともとおやつの習慣も無い家庭だったので、夕方にはすっかり空腹でした。母は甘いものが大好きで、一人で和菓子を食べていることもありましたが、欲しそうにすると「これは私のものだから駄目」と言うので、時々置いてある袋のお菓子をこっそり食べたりしていました。
夜遅く9時前に食べる夕食は、糖尿病の父に合わせた薄い味付けの野菜のおひたしや焼き魚中心の料理で、成長期の子供にはカロリーも低いものでした。中学生くらいまでは夕食が出ない日もありましたが、高校生になると何かは食べることができていました。それだけでも有り難いと思っていたし、他の家庭がどのような夕食を食べるのかも知らなかったので、文句も言えませんでした。
高校生の頃は、常にフラフラした感覚と目眩、首・肩・腰などの痛みに耐えていました。当時は父の借金の問題も多々あり、「お金がない」とよく母から聞かされていたので、学校に必要なお金をお願いすることも遠慮していました。昼食代は一週間に千円、お弁当は作ってくれませんでした。週に6日も通学があるのに、食べざかりの高校生が昼食を済ますには無理がある金額でした。校内の売店でも小さなパンは100円以上して、まわりの子が美味しそうに食べる姿を見るのがつらくて、なにも食べずに一人で屋上で休むことを選んでいました。お小遣いも少なかったので、毎週千円を貯めて音楽に使うことを楽しみにかえていました。
不思議だった母の行動の記憶
母は10年前に亡くなっているので、少し客観的にどのような人だったのかを思い返すことが出来ます。料理中に鍋を焦がしたり、イライラして夕食事を出さないことも多々ありました。夕食の時間は6時位から作り、出来上がるのは8時半過ぎでした。野球が好きで、いつもラジオで中継を聞いてイライラしたり怒鳴ったりする声が聞こえていました。9時になっても食事に呼ばれないと、「今夜の夕食は無しかな?」と覚悟していました。平日は父が遅く帰っていたので、父の食事だけは品数も多めに、しっかり欠かさずに出していました。
さらに母は出発する時間や待ち合わせの時間に間に合うように行動することが出来ず、外出の際にもイライラしていました。外では先に歩いていってしまい、知らない場所に置いていかれるようなこともありました。6歳上の姉は、バス停に置いて行かれてパトカーで家に送ってもらった事があるし、私もよくはぐれて迷子になっていました。
電車に乗ると、話しかけても眉間にシワを寄せて無視をして、全く視線を合わせてくれませんでした。話しかけても、無視をされました。到着駅に着くと、さっさと先に降りて行ってしまいます。高校生になってもそれは続いて、すごく不思議な行動でした。
外出先から帰る時に、近所の人が外にいるのを見つけると、「目を合わさないで急いで家に入りなさい!」と言われて挨拶を避ける人でした。
私が小学生になった頃から、母は仕事をしていないのに週に5〜6日は習い事で外出し、常に私は鍵を持って学校へ通っていました。学校の先生が家庭訪問の予定を組む時に、「仕事をしていないお母さんの家庭」という前提で予定を入れても変更が必要で、どうして母がそんなに家に居ないのかを上手く説明できず困っていました。
自分が話したいことを一方的に話し、常に自分のやりたいことを優先する傾向が強かったです。友達付き合いも、ほとんど無い人でした。習い事で知り合う人と一時的に親しくなって、会ったり長電話をすることもありましたが、話した後はその人の悪口を言っていました。密に連絡を取って会うような、本音で付き合う親友という存在は居なかったはずです。
母も発達障害の傾向が強かったかも知れないと思えばスッキリ納得
母にも発達障害の傾向があったと仮定すれば、これらのエピソードの不思議だったことが納得できます。私と同じようにマルチタスクが苦手だったとすると、料理を家族四人分作ることも集中できずに大変だったと思います。料理が得意だと自分では言っていて、品数も多く作ろうとするので、余計にまとまらなかったと思います。母にとって優先事項が高いことに合わせて行動していたならば、「料理」は父の食事を作ること、「外出」は行き先へ早く着くこと、という考えで精一杯だったのかもしれません。
晩年は少し穏やかになり、それらの傾向は薄まった印象がありました。ガンで体調が良くなかったこともあり、自分の出来る範囲で、座りながらゆっくり料理をしていたからかも知れません。外出の際も、付き添う人を無視して先に行くほど元気でもありませんでした。
母も祖母から虐待のような厳しいしつけを受けたと聞いたので、母子の間で子供を親の言う通りにコントロールすることや、しつけと虐待を混同する歴史が繰り返されていたのかもしれません。
私が発達障害の診断を受けてからは、母にもADHDの特性が強かったと考えれば様々なことの辻褄が合ってきました。母は自分の思うままに行動したい気持ちが理性に勝り、コントロールできない私にイライラし、自分の特性も感情もコントロールする方法が解らず終えた生涯だったとしたら、気の毒な時代に生きた人だったと思えるようになりました。母が亡くなって10年経ち、私が母のことを過去のこととして客観視できるようになったとも言えます。物事の理由が解らないことがとても苦痛に感じる私にとっては、母との関係で「長年の苦しみの原因と自分なりの解釈の落とし所」が見つかったのは本当に大きなことです。自分が発達障害の勉強をして検査を受け、診断を受けたことがきっかけで、とても楽になった理由の一つが母との関係性の納得です。
そして幼少期から母が出かける間に、私にも習い事を詰め込んでくれたおかげで、自分の好きなことにつながるピアノやバレエも習えて、家庭教師をつけてもらって大学まで行ける環境だったことは、結果として悪くなかったと思えるようにもなりました。もちろん普通の愛情をかけて育ててもらえていたら?とも考えますが、過去は変わらないので、そのまま受け入れて考えすぎないようにしています。
友達関係に深いものを求めないと楽になった
高校生になると、合わない人が居ること、友達は無理をして作るものではないと心から理解していました。自分が悪いから嫌味を言われるのではないことも、少しずつ理解できるようになってきました。無理をしないで自分の心地よさを大切にしていると、興味を持つ子は話しかけてくれるし、嫌がらせをされても「この子は心の闇が深くて気の毒だな」と思えました。
人との距離感も大切
閉鎖的で同調圧力の強い女子校の校風が自分に合わないと割り切って過ごしてみると、音楽が好きな子が話しかけてきたり、留学生と話したりして、クラスは関係なく広く浅い交友関係ができました。
学校にいる嫌な人達は数年我慢すれば会わなくなる人達で、一生付き合う可能性の高い家族と比べたら大した問題ではありませんでした。もちろん乱暴な言葉を受ければ心の痛みを引きずったし、苦手な人に毎日のように会わなくてはならないのはとても嫌でした。私が強かったとか鈍かったとも思いませんし、むしろ忘れられず痛みを引きずります。でも学校での人間関係は、数年の我慢で必ず切ることが出来るものです。私が通ったのが地元の学校ではなかったからかもしれませんが、視野を広く持てば割り切ることができました。
家庭に信頼できる人が居なかったことが原因かも知れませんが、私には心から信用し続けている人がいなくて、いまも誰に対しても一歩引いて見ているところがあります。他人に何とかしてもらおうと考えるよりも、自分の力で選択して生きたほうが楽に感じます。失敗しても自分の責任として、そこから何かを学んで立ち上がるという精神が私の根本にあると思います。だから人のせいにして、解決したことにするという事はなく、原因と問題点を分析して自分にこれから出来ることを考える傾向があります。とても感情を揺さぶられやすいけれど、とても冷めた部分があると思います。
発達障害があると、人の言葉をうまく消化できず、人と付き合うことが怖くなるかも知れません。もともと私も、「完全に信用できる」と「全く信用しない」の二択になりがちで、人に依存しやすかったと思います。嫌な経験を繰り返していく内に、人と親しくなりすぎないように壁を作るようになってしまいました。しかし、「信用できる」「信用しない」の間には、「ほどほどの距離感の関係」もあることを覚えていくことが、社会で生きていくためにも必要なことだと最近は思っています。相手の欲する距離感を測りながら、のんびり時間をかけて付き合っていくのも良いと思っています。
進路は消去法で決めて、なんとか高校卒業
高校生の頃には、自分の人生を生きるために親から離れることが必須だと確信していました。そして海外で生活する方が、物理的な距離も取れて自分に合っていると考えました。常に自分が持ち続けてきた、「居場所が欲しい」という気持ちが外へ向き始めた頃だと思います。
高校は、卒業できなくてもどっちでも良いと本気で思っていました。2年生の時に海外の高校へ留学することを母に反対されたことがあったので、文句を言われないように自分の力で計画を実行する方法を考えました。
高校卒業後はそのまま付属の大学へ通い、その間にお金を貯めて自分のお金でアメリカの大学へ行こうと考えました。英語の勉強をしたいという目的ではなくて、自分に合った場所で生活をしたい気持ちと、当時はまだ日本では学べなかった音楽療法を学びたいという目標がありました。
具体的に家を出ることを計画しても、心の中では実行できるまでをまともな精神状態で過ごす強さが自分にあるのかどうか、本当に出来るのかとても不安でした。信頼できる人が居なくて、誰にも相談できなかったので、自分で考えて目標に向かって頑張るしかなかったのです。
大学の専攻を決めたのは消去法
高校の付属大学には、当時は大きく分けると国文学、英文学、家政学の三つの学部がありました。英語の勉強が私にとっては一番楽そうでしたが、英文学に興味がなくて、おそらく本を読むことが出来ずに苦労するだろうと考えました。日本の古文や歴史には全く興味がなく、高校でもほとんど理解できなかったので国文学は論外でした。
そこで興味が持てること、教科書を読んで覚えることが少なそうな学科を考えて、家政科の被服学を専攻することにしました。
少ない選択肢のおかげで進路に迷わずに済んだ
実技が評価される被服科ならば、教科書を読んで覚えるという自分が苦手なことをあまりしなくても済む可能性に期待しました。ファッションも、裁縫で何かを作ることも大好きでした。もし私に色覚異常がなければ、ファッション関係の仕事も考えただろうと思いますが、とにかく三つの選択肢から消去法でやりたいことを考えました。そして短大もあったので、短大の二年間でお金を貯めて海外の大学へ編入しようと計画しました。短大や家政科は人気がなかったので、私の成績でも問題なく進路が決まりました。私は選択肢が多いと考えすぎて決められなくなってしまうし、成績も生活態度も悪かったので、三つの選択肢でちょうど良かったのです。
発達障害の人への対処法としてよく知られていますが、選択肢が多いと色々と考えてしまって決めることが出来ないことがあります。「夕飯は何が良い?」という質問よりも、「ハンバーグとカレーならどっちがいい?」と具体的に少ない選択肢で質問されるほうが選びやすいと言われています。
少し話がズレますが、発達障害の人は「空気が読めない」という表現をされることがあります。私の場合は、抽象的な表現から相手の意図をくみ取るのに時間がかかって迷います。「どうしたい?」と聞かれると、「相手がすでに持っている答えがあるのではないか?」「私の選択で他の人が困ることはないか?」「見当違いなことを言わないか?」など、余計な思考が高速でグルグルと回りだして焦ります。その結果、あわてて「衝動的な表現」で答えていることが多いと思います。むしろ、「空気を読みすぎて迷走してしまう」という表現が合うと思っています。
女性の発達障害の人は衝動的な行動を抑えがちなので、質問をされると頭の中で様々な考えが高速でまわった結果、自分の考えを言えなかったり、我慢したり、相手の求めていることを答えてしまうことが多々あると思います。
短大に合格して高校卒業
短大へ進むためには、論文の提出と面接試験がありました。書いたり人前で話すのは好きだったので、難なく合格しました。
論文では「焼きおにぎり」について書き、「シンプルなものほど心を込めて作らねばならないし難しいものだ」と面接で熱く語りました。そして被服学を学びたい理由は、「何かを創り出すことが大好きだから」と伝えました。大学の先生からの評価は、「論文の目の付け所が素晴らしく、目的意識、面接の態度もしっかりしていて非常に素晴らしい学生」と言われて合格しました。
面接は緊張するものですが、自分が社会人になって大勢を面接する立場になってわかったことは、無理をして良く見せようとするよりも、その面接を受けてこれからどうしたいかを、しっかり考えて臨んでいるかどうかが大切だということです。
私は下調べをしたり、どうして面接を受けたのかをよく考えて臨んでいましたが、一生懸命に伝えようとすると話しが遠回りして、何を終点にしたかったのかが分からなくなりがちだったので、面接では特にそれを意識して、話しの終わりは質問されたことへの返事で終わるようにしていました。
上手な話し方や文章は、私の永遠の課題です。簡潔に要件を上手く伝えられる人になりたいと思っていますが、気持ちが入るほど回りくどくて下手になってしまいます。
高校時代まとめ
この連載を書きながら、改めて発達障害であるという視点で幼少期から高校生までの自分を振り返ってきました。もちろん発達障害の特性なのか、元来の性格なのか、複雑な家庭環境(性虐待・虐待)で育ったことが原因なのか判断できないエピソードも多いです。
今でも自分の考え方や感じ方に大きな変化はありませんが、成長の過程でも工夫していたことがわかりました。こうして過去を振り返って、今の自分と比較してみるのも大切で必要な時間だと感じています。
過去の私は、自分が大嫌いだけど何だか変なところが面白くて好きで、人よりも何をやっても時間がかかってミスが多いけれど、人の何倍か努力をすれば誰にも負けない位に出来るようになるという変な自信があって、自己肯定感が高いのか低いのかわからない人格でした。今も根本は、自信がなくて不安定な子供のままだと思いますが、習い事の先生や学校の一部の先生、さらに社会へ出て褒めて育ててもらえたことで、自分が大嫌いという感覚はやっと無くなりました。私が子供の頃に発達障害の診断を受けていたら、おそらく諦めたり我慢をしていたかもしれない経験も人生で沢山できたと思います。
でももちろん、もっと良い環境で育っていたら楽だっただろうと思います。私のように無理をして、大人になってから二次障害で苦しんで、普通の生活ができなくなるのは本当に大変です。将来のある子供たちと同じように、いま私と同じように苦しんでいる大人たちもサポートを必要としています。発達障害から来ている不自由さや心の病と気がつかず、生涯を終える人も多いと思います。
女性の発達障害の人は、「おっちょこちょい」というみえ方で診断を受けるほどではないと思われがちです。もちろん、それで幸せに暮らせるのならば良いのです。でももしかしたら将来悩みが重なって、精神疾患を発症する可能性があることも広く知っていただきたいのです。
発達障害があってもそうでなくても、優しく尊重しあう社会で、誰もが自分の力を信じる力をつけることを手助けし合える環境であってほしいと思います。私ももっと余裕を持って、自分のことも周りの人も、大切にできるようになりたいと思っています。
では次回からは診断を受けずに過ごした短大進学後のこと、さらに一般の会社で働く成人期でどのような特性や悩みがあったのか、私が発達障害の二次障害を発症するまでの経緯をお伝えしていきます。今後も男性と女性の発達障害の違い、大人になってから診断を受けることのメリット・デメリット、生活面での工夫も盛り込んでいく予定です。