フラッシュバックを気にする生活に別れを告げたい!
精神的な疾患を抱えている人(私も含めます)に多いのは、いわゆる「フラッシュバック」と呼ばれる症状なのは周知の通りでしょう。これを簡単に御説明すると、強いトラウマ体験を受けた記憶が後になっても突然鮮明に思い出されたり、夢に見たりするといった現象のことです。
ざっくり
学生時代のトラウマのフラッシュバックから開放されるために
私が普段味わっているフラッシュバックは、大体が学生時代のことです。
例えば、学生時代に教師や同級生に邪険にされたり、言葉で否定されたりした記憶が起きている間に蘇って、酷く嫌な気持ちになることがあります。
また、夜眠る際に、学校で誰か(教師、もしくは同級生)に刺々しい言葉で命令されたり、学校が嫌で嫌でたまらず、どこかに逃げようとしている夢を見る、といったことが多いです。
学生時代に形成されたトラウマというものは非常に苦しいものです。幼いうちは言葉を錬成することもなかなか出来ないですから、周りに個人的な苦しみを説明することも叶わない場合が多いです。
また、大人になってからもトラウマが増加していく瞬間というものはあるでしょう。社会に出たり、仕事に携わったり、生活を回していったり。その中でも苦悩やしがらみは付きまとうものです。
しかし、黙ってトラウマを味わっていてもただ辛いだけで、意味は無い!というのも事実だと私は思います。
今回はトラウマがある、という状態をきちんと受け入れつつ、トラウマを気にせずに生きていく方法が何か無いか、私なりに考えて文章に起こしてみようと思います。
方法1:手軽に楽しめる趣味に手を出す(思考の逃げ道を作る)
フラッシュバックに意識が集中してしまうということは、他に楽しみが無くて辛い、ということの表れでもあるのではないかと私は考えます。となるとやはり「趣味を持つ」という行動が活きてきます。
自分の場合は音楽・読書・映画といった創作物を楽しむ習慣があるので、辛い時は創作物に触れて、それについて考えることで思考を埋めています。
音楽の場合は(別途料金はかかりますが)サブスクリプション・サービスで聴くのが一番早く、手軽に聴けます。
あらかじめ用意されているジャズ、クラシック、ロックといった様々なジャンルをまとめたプレイリスト等を聴くだけでも全く違うと思います。特にジャズは歌唱もあまり無く、何も考えることなく只々上品な音が入ってくる。かつ、聴き込んでいけばいくほどに演奏者の思想や狙いが読めてくる奥深いジャンルなので、是非お勧めです。
読書に関しては、長い小説を奮闘して読むよりは、エッセイ集に手を出した方が良いです。長い小説を読むのは活字に慣れていない方にとっては完全なる苦行ですし、ある程度慣れていても大きく体力を消費するものです。
何ページかごとに題が区分けされているエッセイ集は、疲れている時でも楽しく読めるのでお勧めです。漫画を読む時も、集中して読まなければならない連作の漫画よりは、一巻で完結するようなものを読むのが吉です。
映画については短いものでも大体一時間半はあるので、長く退屈する時間がある日に観て気を紛らわせるのが一番賢い味わい方ではないかと思います。退屈な時間というのがフラッシュバックを最も呼び起こしやすいものである、ということは皆様も身に覚えがあるかと思います。
時間が無い時に映画を見るのは単純に大変なので、推薦しません。ふと我に帰ってしまうような瞬間が今日は多いだろう、と予測できる日に、Amazonプライムなどでサッと観るのが大事です。
方法2:散歩を日課にする(運動を通して思考をほぐす)
人の行き交いがあまり無い道を見つけて、そこを散歩コースにしてみるというのも一つの手段です。
散歩をするというのは身体を使うということで、脳だけを使っていると身体のエネルギー消費量がおろそかになってしまうという問題があります。脳と身体のエネルギー消費量が噛み合っていないということが健康を害する恐れがあります。運動をすると、思考をほぐすことがしやすくなります。脳と身体のエネルギー消費量を同じくらいにすることで、思考を整えることができるのです。
また、外気を浴びながら散歩をする、ということが大事です。部屋の中の空気だけを浴び続けてしまうと、自然と密閉性のある思考ばかりを選んでしまいがちです。外の空気を身体で浴びて体温や肌感覚を変化させる、ということが実は重要なことなのです。
周りに人通りが多い居宅にお住まいの方は、落ち着いて散歩できるコースを探すのが厳しいかもしれませんが、人通りの少ない場所に暮らしているという方には是非この方法がお勧めです。
方法3:トラウマは大事にしてもしょうがないものだと意識する(思考の癖を正す)
最も重要なのは、トラウマというものは大事にしてもしょうがないものだと、勇気を持って認識し切ることです。
ネガティブな思考というものは非常に中毒性があるもので、ネガティブな思考を味わい過ぎると、人はポジティブな考えに至れなくなります。また、不思議なことにネガティブでいること自体にある種の気持ち良さを感じてしまう、という感覚もあります。例えば私は鬱病が酷かった時、なぜか気持ち良さも同時に感じていました。ベッドに寝転んで気分が悪くて仕方がない状態が、なぜかどこか安心できるというか、まるでそれが本当の自分であるかのように思いもしたのです。
しかし、ネガティブで居続けるというのは思考を変えず意識の底に留まるということでしかない、というのが、私が長年鬱屈やフラッシュバックと付き合った末に得た感覚でした。物事を前向きに考える、ということには体力が必要です。しかしそれをしなければ、生活が変わっていかないというのもまた事実なのです。
そうなってくると、トラウマというものは捨てるしかなくなるのです。トラウマの中に何かがあるように思えてならない、トラウマを抱えていなければ不思議と何か落ち着かない、といった身体的感覚がある方は意外と多いかと思います。私も、全くもってそうでした。
しかしそれは結局、鬱屈の中で染み付いてしまった思考の癖でしかないのです。それまでトラウマと共に過ごしてきた生活に慣れ過ぎて、前向きに考えることを身体が無意識的に拒絶しているのだと私は解釈しています。
トラウマは何一つ大事ではない。
ネガティブな思考には何一つ価値は無い。
快楽的に生きていくことを考えることは、何一つ自己中心的なことではない。
こういう風に考えるようになって、私は凄く楽になりました。しかし、この考え方はあまり日本では浸透していない気がします。私はこれが暗い気持ちを乗り越えるために大事なことであると思います。思考の癖を無理なく少しずつ正すことが、結局はフラッシュバックや鬱屈を根絶する上で一番に大切なことなのだと私は思います。
健やかになるには、忘れたり、捨てたりすることが大事かもしれない
以上が、フラッシュバックに対して出来ることとして私が考えた対処法です。この他にも何かあるかもしれませんので、引き続きこの問題については日頃から考えていきたいと思っています。
私の愛好するミュージシャンが書いた歌詞に「忘れてもいい。捨ててもいい。一歩一歩塗り替え、変わっていく」という趣旨の言葉があります。
結局はそれが真実なのだろうと思います。健やかに暮らすためには、相応の勇気を持って忘れ、捨てることが肝になってくるのだろうと思う日々です。