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2021/09/10:フリーペーパーvol.66発刊!

ジョニ・ミッチェル「ブルー」遂に50周年。ということで、改めて聴き直してみよう

私の10代をそばで見守っていたのは「ブルー」だった。

1971年に発表され、未だその音楽的効能を保ち続けている、ジョニ・ミッチェルが生み出した真実の名作「ブルー」。このアルバムから今年2021年でとうとう50年の歴史が経過しましたが、全く古びないそのサウンドと透き通った歌声に、私は今も感動し続けています。

このアルバムを聴いたのは、私が中学生から高校生にかけてのことでした。それまではほとんど邦楽しか聴かなかった私ですが、その頃になると洋楽に対して勢い付いており、逆に邦楽をあまり聴かなくなっていました。そんな時、地元のCDショップでこの「ブルー」を買ったのです。きっかけはYouTubeで収録曲「California」の、本人の演奏動画を観たことでした。


それまで私は邦楽ならミッシェル・ガン・エレファント(このバンドも名バンドでした。攻撃的で暴れ回るサウンドと老人のような歌声が一体化した、唯一無二のバンド。機会があれば是非お聴き下さい)、洋楽ならイギー・ポップ&ストゥージズ(イギーもまたアウトローなアーティストです。歪んだ過激なロックバンドを率いるそのエネルギーに夢中になったものです)が最も好きなアーティストで、とても荒々しい心を抱えていたのです。そんな時に聴いた「California」のそれまでに体験したことのない軽やかさ、爽やかさ。しかしそれが押し付けがましくなく、ある種冷静な目線から提示されていることに対する驚き。エモーションと冷静さが融合したような音楽がジョニの音楽で、それがとにかく衝撃でした。

すぐにCDショップで「ブルー」を手に入れ(当時はちょうどレコードを再現した紙ジャケットで再発売され、店頭に並んでいました)、見事にどハマり状態。数ヶ月はほとんど「ブルー」しか聴かない精神状態に入りました。
当時は自分の生まれ持った発達障害(自閉症スペクトラムと言われるものです)の禍々しい側面と、学生生活で求められる振る舞い・勉学・交友の間で折り合いが付かず、本当に悩んでいました。そんな10代の発達障害を自覚する者特有の鬱屈とした心象風景に色・艶を付けてくれたのは、他ならぬジョニの音楽でした。
私はジョニの音楽にどっぷりと浸かり、その中に自分の安定した心持ちを築いていきました。当然、友達はあまり出来ませんでしたが、感性はどんどんと鋭敏になっていきました。ジョニに育ててもらった感性で、私はこの記事を書き、それを今の仕事にしているというわけなのです。

そもそも、ジョニ・ミッチェルってどんな人?1971年はどんな時代?

ジョニ・ミッチェルはカナダのシンガーソングライターです。「ブルー」を発表する前から、「ビッグ・イエロー・タクシー」や「ウッドストック」といった楽曲で時代の鑑となっていました。ジョニは通常のギター・チューニングと違った変則チューニングを大々的に取り入れ、ピアノとギターを使い分けながら様々な楽曲を作ります。「ブルー」以降はジャコ・パストリアスというベーシスト等のアーティストとも手を組み、ジャズや民族音楽を取り入れた独自の音楽性が現れていきます。またジョニは絵画も達者で、自らジャケットを描いたアルバムも多いです。
「ブルー」が発売された1971年という時代にも注目してみると、当時は戦争やクーデターが多く、特に大きな戦争としてはベトナム戦争が1965年から継続しており、決して明るい世相ではなかったと思われます。世相に対する返答としてマーヴィン・ゲイが「What’s Going On」をリリースするといったことも起きており、音楽界でも戦争による被害、各国の政治的思惑の交差が問題となっていたことが伺えます。

世界は苦悩しながら発展していく。だからこそ「ブルー」は輝きを失わない

今、「ブルー」を再び聴き直すと、現代のアルバムに加えて相当装飾が無いことが分かります。伴奏はほとんどアコースティック・ギター、もしくはピアノのみ。時々他の楽器も入りますが、主張は抑えめです。何かの楽器がソロを取る場面もあまりありません。それが逆に新鮮なのです。
これだけたくさんの音楽が発表され続けている今もジョニの音楽が聴き継がれているのは、やはりこの装飾をしない生々しいサウンドに魅力が宿っているからだと私は推測します。

録音は素晴らしく鮮明で、50年経ってもリアルに響いてきます。特に3曲目に収録された「Little Green」のアコースティック・ギターの爪弾きはとても繊細で印象に残ります。未だに心を震わせるこの音色。そしてジョニの全てを知り尽くしたような歌声で歌われるのは過去の恋愛事情だったり、世界を取り巻く憂鬱な事象に対するやるせない思いだったり、複雑な思いがそこには映し出されています。
昔は麻薬中毒や戦争、今はコロナウイルスといったところでしょうか、人間社会につきものの「ブルー」は未だに広がり続けていて、ですがその「ブルー」がなければ社会の成熟や発展はあり得ない。人の心を見つめれば、そこにはいつだって「ブルー」があり、その「ブルー」を解決しようとする熱情が人間社会を作って来た、と私は考えます。だからこそジョニの「ブルー」も普遍性を失わず、リアルに鳴り響くのでしょう。

私が特に印象深く感じるのは、たった三分間、しかしとてつもなく濃密な三分間であるタイトル曲「ブルー」。「Blue」という一語目の発音から、声のコントロールに情感が思いっきり乗っかったこの曲。この「ブルー」という曲を繰り返し聴いていた10代の頃が蘇るようです。「Blue」というのはジョニの昔の恋人であるデイヴィッド・ブルーのことだそうです。どうにもこれまでの人生、これからの人生について思いを馳せたくなるのは、そういった過去の恋愛から書き上げられた歌詞の内容だからでしょうか。それともこのピアノの音が切なくさせるのでしょうか。

ジョニにとっても、私にとっても、この曲はノスタルジーではない、と断言します。前述の通り、私の10代は今思えば苦悩ばかりしていたように思えます。人生を楽しむ、ポジティブに物事を捉える、といった心情の在り方は、20代に入ってからようやく知ることができたようなものです。
ジョニも恋愛において、様々な苦労や悔恨を重ね、この「ブルー」というアルバムを作り上げたのだということが分かります。そんな風にアーティストと自分の環境を重ね合わせながら音楽を聴くのも、また楽しく、考えさせられるものです。

「ブルー」に計算は無い。そこにあるのは「野性」だった

こうして聴きながら記事を執筆していても思いますが、やはり「ブルー」は何度でも聴き直したいアルバムです。
今、こういった装飾のない、計算よりも人間的な野性を優先しているような音楽はどこにもなく、その証拠に、この和音の響きやメロディーの持って行き方というのはジョニにしかできない、実に不思議なものです。上昇したり、下降したり、気まぐれに落ち着いたり、少し盛り上がったり。言葉がメロディーを呼び、メロディーが新たな言葉を生むような、弛まない川の流れにも似た作詞・作曲。これは本当にジョニ独自のものです。

現代の音楽界の様相を否定するつもりはありませんし、むしろ今の音楽は良いところが沢山あると思うのですが、「ブルー」を聴いていると、いつの間にか世の中の音楽は計算高くなり過ぎてしまったような気もします。現代のミュージシャンが行いがちな、ここでこう演出して、ここで山場を作って、といった計算や論理の共有からは現れない、型にはまらない音楽が「ブルー」です。
成熟と発展の段階で、ある種ビジネスライクになってしまった現代の音楽に対し、その野性と揺れ動く心を、高い歌唱力・演奏力のままに映し出したジョニ・ミッチェルにしか鳴らせなかったアルバム「ブルー」が示すもの。それはあまりに大きいと感じます。

今の音楽には何だか色々な思惑が詰め込まれ過ぎていて、なかなか息苦しい、だけど何か音楽を聴いていたい。と感じているあなたには、是非「ブルー」をお勧めします。
1971年の音楽ですが、それはノスタルジーではありません。昔の音楽を聴くことがノスタルジックな行為だと言ってしまうこと自体、間違っているようにも私は思います。古き新しきは関係なく、全ての音楽は平等で、それを聴くリスナーも平等である。という事実は、この移ろい行く世界の中で、未来永劫変わらないことなのですから。

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