「周りの人たちが必ず手伝ってくれると簡単に思うなよ!!」
これは、僕が高校1年生の頃、当時の進路指導の先生に言われた言葉です。 自分が敢えて嫌われ者になることで、「社会の厳しさ」というものを教えたかったのでしょうけど、 「教育」を何かと履き違っていた気が現在26歳の私が振り返って考えてみてもしてしまいます。
私たち障害者が街に出ると、少なくとも周りの数人に一人か二人は「何か手伝いましょうか?」「この私にできることはある?」などと心優しく声をかけてくれたりします。逆にこちらから何かを依頼しても、「いいですよ」と快く引き受けてくれたりがほとんどです。断られるとか、無視されることももちろんゼロとは言えないですが、ほぼ無いに近いのではと思います。
日本は世界的に見ても、ノーマライゼーションなどの観点で遅れがちとされていますが、それでも障害者にもっぱら厳しい国という訳でも無いですよね。 私たちを誰も助けてくれない、支援してくれないという社会こそ、あったらそれはそれで大問題でしょう。そこは、もうむしろ「日本」という国ではありません。
ざっくり
授業の準備で机を並べていた時
私が通っていた学校では週に2回ほど進路指導に関する学習の時間がありました。
全学年合同で大きい広間に机を並べて授業をするわけですが、前の休み時間で先生の補助も多少借りつつ、みんなで授業を始める準備をしていくという段取りでした。昔ながらの木の重い机で2段に積み重ねてあるので、ただでさえ目線が低い車いすの人が一つ一つ下ろして並べるには危険が伴う作業でした。
いつものように準備をしようとしていると、なかなか人手が集まらず作業が進められないところへ進路指導のあの先生がやってきたわけです。
3、2、1、GO、ひょっこりは〜ん(笑)という感じではなく、無口で険悪なオーラでした。
進路の先生なので外回りの仕事が多く忙しいらしく、滅多に授業をすることがない上、いつもの授業風景を見に来ることすらしない先生がです。
今思うと、おそらく授業の担当の先生に指示するだけのゴーストライター的な裏方のポジションだったのでしょう。
パワハラ教師の暴言が炸裂!!
部屋に入ってくるなり、部屋の隅っこにあった椅子に座り込み、脚を組んでこちらの様子をじっと見てきました。
私が無理を承知で「今ちょっと人手が足りないので、机を並べるのを少し手伝っていただけないでしょうか。」とだいぶ平身低頭気味にお願いしたところ、
「誰が君たちなんかを手伝うか。周りの人たちが必ず手伝ってくれるとそう簡単に思うなよ!!」
と吐き捨てて、
「早く机を並べないか!!」「おい、早くしろよ!!」と余計に急かしてきました。
私も「あ〜、余計なことしゃべってしまったなぁ」と思いつつ、黙って聞いてなんとか凌いでいたのですが、
先生はそれに調子に乗るかのように、悪口雑言を浴びせてくるので、腹わたが煮え繰り返るぐらい憤りの感情で溢れそうになりました。
結局、その後の授業に先生が入るという訳でもなく部屋を出て行きましたが、このイライラは一体何だったのでしょうか。
「一体、あの先生は何しに来たん?」「いじめに来ただけかよ」
普段の私たちのことを全く知らないようなヤツに、ただ好き勝手に悪口ばかり言われるというこの理不尽。
確かに先生からすれば私たち生徒は皆下の立場になりますが、だからといって人を見下すような発言を平気でするのはいかがなものかと。
あの時、「痛快TVスカッとジャパン」的にうまいこと倍返し出来たら良かったなぁ。救世主も誰もいませんでした(笑)。
この出来事を先輩や周りの先生たちに話すも相手にしてもらえず、悔しさだけが滲みました。
もし俳優さんで先生役やるとしたら津田寛治さんかな?だと、まだ少しは笑えるかな?
「社会の厳しさ」ってより、ただ自分が手伝いたくなかった面倒だったという言い訳に過ぎなかったんじゃ無いの?だとしても、それはそれでヤバイ人だと思います。だって、進路の教員という立場の人間がですよ。相手を平気で不快な気持ちにさせる。そんな人に進路なんか任せておけないですよね。
ちなみに、その進路の先生もその年を最後に異動となったのですが、離任式で渡された花束が一番少なかったような…。やはり、日頃の行いの結果でしょうか!?
続いてはムカっとする奴を得意技で黙らせる、スゴ技スカッとです!
今夜はバスケしている少年たちに公園から出ていけと騒ぐ迷惑男が登場!
更に、理不尽な理由で対決をしかけてくるこの迷惑男を一体どんなスゴ技で成敗するのか?
お楽しみに!#フジテレビ #スカッとジャパン #津田寛治 pic.twitter.com/wECCqxl4r0— 【公式】痛快TV スカッとジャパン (@sukatto_japan) March 4, 2019
同級生の呼び方にまで物言いが…
新学期が始まり、他方から新しい友達がやってきたわけですが、その子から「名前は、ニックネームで何って呼んだらいいかな?」と聞かれたので、「僕は、『かっちゃん』ってよく呼ばれているからそう呼んでいいよ。」と答えました。ここまでは、素晴らしい新生活のスタートという場面ですが、そこから厳しい展開に。
担任の年配の先生から「あだ名で呼び合うのはやめてほしい。」と思わぬ横槍が入ったのです。
その理由は、「学校を卒業して社会に出た時に、職場などでニックネームで呼び合うことがあってはいけないから」とのこと。
私も先生の解釈の意味が全く理解できませんでした。
私たちはお互いの同意がしっかりあって、ニックネームで呼び合うことにしたのに何で直接関係ない人に横から文句言われないといけないのかと。
しかも、その先生こそ一方的に付けたらしい勝手なあだ名である特定の生徒を呼んでいる場面を幾度も目撃していました。
自分のことは棚に上げて他人にはダメという先生の言うことを誰が信じますか(笑)?
「社会に出たら〜」という勝手な理由を付けて、友達の関係の邪魔までしてくるのはどう考えても先生がすることではないと思います。だって、一生の宝なんですよ。
【元小学校教員が語る】あだ名がダメと言われるのはなぜなのか?https://t.co/l4oAhCSrbA#元小学校教員 #あだ名禁止 @YouTube pic.twitter.com/vcerV5Hotj
— 大塚ケンジ (@singing_kenji) December 1, 2020
社会に出ても呼び名の使い分けができないほどウチらはバカじゃない
確かに最近の小中学校では、友達同士であっても「さん」付けで呼ぶようにルールを設けてある学校もあるそうですが、それはそれでとても意味のあることだと思います。
呼び捨てや明らかに人を侮辱したり蔑んだりするような悪質なあだ名を使ったりしないように、そして、いじめ防止という観点からも矯正の意味では必ず大事なことです。
しかし、高校以降は義務教育ではない上、一人一人それぞれ自分で色々と責任を持てるようになっている年代です。
社会に出てからも友達同士でニックネームで呼び合うことは普通にあるだろうと思っていましたが、それがたとえ職場内、上司や他の同僚も目の前にいる場だったとしても使えるかというと、そうはいかないだろうというのもさすがに想像できる歳です。仕事場の空気ぐらいは読めますよ。そんなことドラマを見てても分かるのに。
「社会に出ても呼び名の使い分けができないほどウチらはバカじゃないのに」とヤキモキしました。
むしろ、社会に出ても名前の呼び方の使い分けができるように指導するのが先生の仕事だと思います。ただ多用しないようにとか釘をさす感じでもいいので。
始めから全てダメとか言って禁止する以前に、やるべき教育があるでしょうって話です。
親が担任の先生に抗議の手紙を書いてくれたおかげでようやくニックネームも許してくれたので良かった訳ですが、
先生も許可してあげたという感じだったので、「先生には何の権限もないんだけどなぁ…。」という多少のモヤモヤだけは残りました。完全勝訴ならず。
あだ名禁止を学校とかで禁止するのはどうかと思う
嫌なあだ名をつけられたから禁止はわかるけど…
実際、名字が被ってる人とか同姓同名の場合だと区別しずらいし
中学の頃、小林さんが三人いたし、同じ名前の人いたし。わかりずらいよ#ノンストップ #あだ名禁止— 渡会未界 (@mikai8432) November 20, 2020
ネガティブな教育で未来を暗くしないでほしい
「社会の厳しさ」と余計に誇張するような言い方をして、なんでわざわざネガティブな見方をしないといけないのでしょうか?
世の中は甘くないと確かに言われますが、それも分かっています。厳しい時は厳しい、一筋縄ではいかない。理不尽な展開もあり得えます。
もちろん社会を生きるためにはそれなりにしっかりしないといけないところもありますが、明るい希望だけは見せてあげるべきです。
「社会の厳しさ」は無理に教え込むものじゃなく、それぞれが感じてそれぞれが学ぶものだと思います。本人の価値観や経済的に厳しいのか精神的に辛いのかなど色々な要素が合わさっているので人によって違いがあるのは当然です。
不確かなネガティブなことばかり教えこまれて明るい未来を見失えば本末転倒で、それでは意味がないです。
世間の人たちは障害者に対して冷たい人たちばかりなのか、社会に出れば学生時代からの友達とお馴染みの付き合いも出来なくなるのかなど、前述のとおり、人生は決して楽な事ばかりではないですが、そこまで厳しいことに出会いしたことはありません。
「社会の厳しさ」より大事なもの
私は、一般企業への就職を目指していましたが区切りをつけて、当時弟が利用していた生活介護の施設を週2回利用することにしました。
もうその施設も利用を始めてから5年以上が経ちました。ちなみに、その後しばらくして「ひふみよベース」の利用も始めました。
学生時代から、「人にばかり頼るんじゃなくて自分でしなさい。」と言われることが多かったので、自分から他人に依頼することがあまりなかったのですが、
施設の職員の人たちに驚かれました。「遠慮せずに何でも頼んでね。」という言葉に気持ちが非常に楽になりました。
それまで私は、「何でも自分一人でしないといけない」と抱え込んでいたようです。「人に頼ること」の大切さをそこで知りました。
こうして福祉に携わる人たちは、「なんてこんなに良い人達なんだろう。心優しい人たちに出逢えて良かった。」と感動すら覚えました。そして、いくら感謝してもしきれないほど非常にありがたいです。
学生時代に飽きるほど聞いた「自立」という言葉も今考えると、自分一人で何でもすることではなく、いかにして自分から他人に必要な支援を依頼できるのかが大事だったのだと思います。
昔の自分には、生活介護とひふみよベースを利用しての生活など全く想像できなかったことだと思います。
「就職」など自分の事で一生懸命で自分しか見えてなくて、あまり人間関係に対して気に留めていなかったのですが、施設を利用しているおかげか、自然と人間関係をより大事に考えられるようになりました。ギスギスしている環境より人との関わりが多いほうがやっぱり良いんでしょうか?
結局、人に頼ることも決して悪いことではないんですよ。むしろ、人との縁の繋がりのほうが何よりも大事だと思います。社会の厳しさを知ることより、人間としての道徳を磨いて育てていくべきです。人の縁に勝るものはないです。
未来は希望の光を写すためにある
未来がどうなっているかは、もちろん誰にも分かりません。でも、わざわざネガティブに考えるより前向きの姿勢の方が大事だと思いませんか?
妙な気負いをする必要はなく、肩の力をそっと抜いて、ありのままの自分で、目の前の状況と戦えば良いと思います。もし、1人の力だけでは無理でも他人の力を頼っても全然いいんです。
今のコロナショックも予想が全くつきませんでしたが、だからと言って大変だ大変だと騒いでいる暇はなく、自分の出来る対策はとことんやって、収束に向けて日々努力すれば、きっと出口も見えてきます。厳しい時は厳しいですが光は必ず見えてきます。
未来は、何のためにあると思ってんの?希望の光を写すためにあるんだよ!!(ドヤッ)
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