多くの人が「パラリンピック」の「パラ」の意味を、下半身不随(paraplegics)から来ていると考えているようだが、本当はギリシャ語の前置詞で「並んで立つ」という意味があるそうだ。ここでは「対等」という意味を持っている。
「試合、スポーツ、それが我々に必要なものだ。」ルードウィッヒ・グットマン医師が残した言葉だ。
グットマンは「パラリンピックの父」とされ、戦争で脊髄を損傷した人の治療を行っていた。この頃、脊髄損傷者のほとんどは3年以内に死亡しており、彼らは死ぬまでの間、世間から見放され、希望もなかったという。
しかし、グッドマンがイギリスに病院を開業した頃から変化が起こった。グッドマンは、脊髄損傷を負った兵士たちをはじめとする障害者に治療にあたり、肉体面だけではなく精神面に注目したという。
今では一般的になっているメンタルにおいての「鬱状態」。当時はこの精神面に気づく医師が少なかったという。つまりこのグッドマンは患者たちの心に気づきサポートすることで希望を与え続けたのだ。
「決して再び歩けるようにはならない、死ぬしかない」と言われていた脊髄損傷者の気持ちは計り知れない。
それまで勤務していた病院では、脊髄損傷者たちはもう二度と歩けない、死ぬしかない、と言われるのが常だった。しかし、このセンターの看護婦たちには「大丈夫、私たちがあなたを立てるようにしますからね」と言われるようになった。
失礼します。選手がアスリートたることを望んだとき、サイバー義肢をどうとらえるか、だと思います。パラリンピックの父、グッドマン医師の「失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という理念に沿うものかと言うことも。
— masakazu yamada (@MadyamaYamada) August 23, 2016
グットマンは患者たちのことしか頭になかった。自分の患者たちを「人間」として扱い、彼らに耳を傾け、彼らには社会の片隅ではなく社会の真っ只中に居場所があるんだということを、世の中の人々になんとか理解してもらう方法はないかと考えた。
1945年のある日、グットマンは突然ひらめいた。彼は患者たちが、杖を使ってアイスホッケーのパックを打っているのを見かけた。ほどなくして、患者たちはダーツやアーチェリー、スヌーカーの試合をするようになった。さらにグットマンは彼らを、車椅子ポロ(若干荒っぽくなりすぎたが)や車椅子ネットボールなど、チームプレーの試合をさせてみた。こうした試合を通して、患者たちは自分たちがまだ人間らしさを失ってはいなかったこと、自信を失う必要はないことに気づいた。
やがてグットマンは、さらにもっとできることがあると考えた。1948年7月、ロンドンオリンピックの開会式と同じ日、グットマンは16人の退役軍人男女をアーチェリーの試合で競技させた。これが国際ストーク・マンデビル競技会の初回として知られている。
全てに通じる、パラリンピックの精神。パラリンピックには、創設者がいるそうです。グッドマン博士という方。その方が提唱した、パラリンピックの精神は、全ての人の人生の灯火だと思いました。「失った物を数えるな。残された物を最大限に生かせ!」ないものを数えるな、あるものを最大限に生かせ!
— 木村英一 (@Eiichi_Kimura) September 5, 2016
あまり知られていないが、パラリンピックにはこんなヒストリーがあったのだ。グットマンの患者を思う力が生きる力とパラリンピックという希望を生み出した。みなさんも「このヒストリーがあるからこそ、今のパラリンピックがあるんだ」と頭の片隅に入れて、残り数日のパラリンピックを見てみてはいかがだろうか。
今回のリオパラリンピックを見て、頑張っていた選手が惜しくも敗れてしまったり、負傷してしまったりと悔しい想いをした人は大勢いることだろう。その想いを将来に向け、また4年後のパラリンピックの取り組み方を考えるきっかけにしてはどうだろう。パラリンピックの父であるグッドマンのように。
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