あなたは、表現の「自由」と「規制」をどう考えますか。
そもそも「表現」には、「社会的要素」と「欲望的要素」が含まれているのではないでしょうか。
そして、ほとんどの表現はこのどちらの要素も持っていて、それぞれの割合が違うということなのではないでしょうか。
たとえば、政治や権力に疑問を投げかける「風刺」という表現は「社会的要素が強く欲望的要素は弱い」と考えることができ、ウケればいい、売れればいい、それで誰かが悲しんでも構わないというような「受け手を選び過ぎる」数多くの表現は、「欲望的要素が強く社会的要素は弱い」といえるでしょう。
「誰もが納得できる表現」というものは存在しないのかもしれません。
「表現」は「自由であるべき」と守られる対象なのか、それとも「規制されるべき」と縛られる対象なのか。
もしも、なんの制限もなく表現できると仮定すればどうでしょう。
「なんでもできる」は意外と難しいものだと思われます。
「なんでもできる」という「制約」と「条件」のもと表現しなくてはならないからです。それが物語だとすれば、あっという間に敵を倒して終わってしまうかもしれません。
「なんでもできる」としても、きっと多くの人が自身のルールを持つ表現をすることになるでしょう。
スポーツもルールが存在するから成立する。日常生活も、そこにもし魔法使いや超能力者が溢れていたら大変なことでしょう。
ルールのなかで、どうそれを乗りこなしていくか。立ち回っていけるか。
しかし、いくら法律や規制に反しない場合だったとしても、「不快ならご遠慮を(見たくなければ見なければいい)」という言葉はその発信者のモラルが疑われるものでしょう。
あなたは自身のことを「表現者ではない」と言うかもしれません。しかし、SNSなどが存在し、スマホを持つことで多くの人がカメラを気軽に使う時代。「表現」はいつもそこに存在しているのです。