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卒業、15の夜、尾崎豊の曲は今の時代にも発売できるのか?

名曲の数々だけど尾崎豊の歌詞のような曲は今の時代に発売できるのか?

主に、現在の40代や50代の実年世代が青春時代に惹きつけられた伝説のシンガーソングライター「尾崎豊」を、まさかお忘れではないでしょう。

カリスマ的人気を誇り数々の名曲を発表しながら、1992年4月25日、26歳の若さで亡くなりました。詳細な死因は明らかにされていません。

そんな尾崎豊の名曲は、歌詞も音もすべてにおいて素晴らしく魅力的です。それと同時に過激さもあわせ持つ尾崎の曲を現在の規制のもとで、当時の様々な名曲の歌詞をそのままに、発表することは可能なのでしょうか?

15の夜/卒業

尾崎豊は、高校在学中にCBSソニーから若干18歳でデビューしています。シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で世に出た尾崎ですが、当時の尾崎はまさに10代の若者の声を代弁する立役者と言えたでしょう。

15歳の夜の心の混沌

夢ばかりが大きくふくらんでいく。
なのに自分は何一つ成長できず、夢との遠い距離に焦りを感じるばかりの、15歳の少年の心理がきめこまやかに描かれています。

登場人物の少年は15歳ですが、タバコを吸っているようです。
校舎の裏でタバコをふかし、見つかっても逃げる場がない」との表現があります。
さらに「バイクを盗んで、15歳なのにバイクで走って」しまいます。

15歳は自動二輪免許を取得できませんから当然無免許のはずです。
これらの非行内容を、15歳少年の鬱屈した心的ストレスに起因する、同情すべき内容と汲むべきなのか?

教育の観点からも、判断の難しいところです。

卒業

チャイムが鳴り教室のいつもの席に座り何に従うべきか考えている」との歌詞があります。曲が終了するまで終始現れる言葉が「束縛」と「自由」。

そして、この曲のタイトルが「卒業」です。

曲中に登場する少年はもがき苦しみます。
少年が苦しまなけらばならない理由は、自分勝手に生きようとしない彼自身の誠実さ、に起因するのでしょう。

そして、少年は大人に期待しています。
大人に期待する少年が、葛藤を克服できずに苦しむのは当たり前でしょう。

なぜなら、

自分の権利を守るためなら大人は他人のことなどどうでもいいとさえ思っているから。

Forget-me-not/オーディション映像

優れた文章芸術として歌詞を読むことが好きで、私はどんな曲でもいったん歌詞にだけ注目します。すると、尾崎豊の歌詞には理論的に分解すればするほど分かり難くなる部分が、ところどころに見られるのです。

Forget-me-not

英単語で「忘れな草」という名詞です。
「忘れ-私を-無いで」ですね。

歌詞冒頭の「小さな朝の光」あたりから序盤は、とてもいいですね。
生活感が無いというか。

尾崎豊の歌詞は描写力がすぐれています。
歌唱力はもちろん秀でているのですが、音を聞かずに歌詞だけ読んでも十分に楽しめます。

その点が、彼の強みなのでしょう。
部分的ではあるものの曲中に現実と理想が混在し、聴く者に問題意識を提起させるのです。

例えば「ささやかな暮らしに」あたりから「ためらい」を「愛の強さ」に変えるという表現などは、尾崎によって文言化されてしまえば誰もが共感できる若者の迷いだと解釈できます。

しかし、混沌(こんとん)とした感情を消化できない私たちは誰も、そのような感情を言語化する力を持ちません。概念として把握することさえ難しい言葉の具体化まで、尾崎豊は行ってくれているのです。

尾崎豊は難しい言葉を使いません。
誰にでも分かりやすい表現は、心の奥深くまで届きます。

だからこそ、彼の天才的な感性がむき出しになった鋭い言葉が現れると私たちは不意を突かれ、逃げ場もなく感情を強く揺さぶられてしまうのでしょう。

16歳でのオーディション

尾崎豊がオーディションを受けるぐらいの昔ですから、彼の曲にも当時流行していたフォークソングの影響が感じられます。

オーディション中のギター演奏の弾き語りも、彼は音を外すことなく、十分な声量も保って歌い上げています。
話の内容も受け答えも、まるで成長した大人のようです。

尾崎豊の曲は今も放送できる

大事なことは言葉の端々の問題ではなく、まとまった内容が各個人にどのような心理的影響を及ぼし、どのような行動を誘発するか、という点ではないでしょうか。

まとめに入ります。

曲の力は半端な揚げ足取りを黙らせる

歌詞、音、歌唱力、すべてにおいて尾崎豊の曲は妥協を許さぬ探究心から生まれた貴重な芸術です。特に歌詞において、ずば抜けた洞察力を感じます。

楽曲「卒業」では、「あと何度自分自身卒業すれば」との表現があります。
これは、中学校から高校、大学へと学びの場を上げていくように、現在の自分からさらに成長した自分へと昇華していくという意味での、卒業だと解釈できます。

しかし、そこに「何度」という表現で「頻度」の概念に気付く詩人は、多くはいません。

求めるべきは聴き手の成長

むしろ必要とされることは、聴き手となる私たちの歌詞に対する読解力ではないでしょうか。

私たちはあまりに活字を読まなくなり過ぎました。
特に、文学作品への関わりは多くの人が教科書に留まると言っていいくらいに減っているのではないでしょうか。

その程度の読解力では、尾崎豊の歌詞を理論的に理解することは難しいでしょう。
突き詰めるなら「なんとなく良いのその上を、目指すべきだと思うのです。

尾崎豊は今でもそのまま放送できる

もしも、歌詞に問題があるというなら聴き手に問題があります。
解釈力不足です。

上っ面だけ綺麗な、耳心地の良い言葉ばかり聴きたいですか?
それでは自分が弱くなっていくだけです。

良薬は口に苦いのです。

尾崎豊なら、他人の目を気にする自意識過剰な少年のような心理も十分に理解していたでしょう。そのうえで、格好の悪い自分をさらけ出し、汚い自分を隠すこともなく、私たちに救いを与えました。

自分自身を差し置いてでも聴く者に自分自身を開示した彼自身が、まるで本当の愛情そのもの、のようにさえ、思えてくるのです。

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