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2019.11.10:フリーペーパーVol.44発刊!

ただ一方的に障害者に配慮することがいつも正しいのか

障害者への配慮に疲弊する日本は長続きしない

実質的な自宅への軟禁状態を強いるなど、障害者への事実上の配慮を欠いた長い経緯が、この国にはあります。

その反動ででもあるかのように、近年では障害者へのサポート意識の高まりが、国の制度変更などからも見えてきました。

障害者への配慮に苦慮

制度の変更により障害者が利益を享受する一方で、それら優遇偏重に対する健常者が抱く不公平感の高まりも感じられます。

中央省庁による障害者雇用水増し問題に対応する形で実施された、国家公務員障害者選考試験については、障害者への優遇であるとの声もあります。

ショッピングモールにおける駐車スペースの優遇、公共交通機関の運賃割引、市区町村で運営する公共施設の使用料割引、市立美術館入館料や公営プール使用料の免除など、損得の分かりやすいものを頻繁に見かけます。

最近では、優遇の限定されてきた航空機の運賃が精神障害者でも半額となりました。さまざまな料金割引サービスも充実しています。

職場における障害者や発達障害者へのサポート体制も、制度だけ見れば、ほんの10年前に比べても格段に向上してきました。

障害者っていったい何だろう?

障害者への配慮においてもっとも重要なことは、見えにくい部分への気配りです。見えにくいので、配慮したところで自分の行為が理解されにくいという側面があります。

それは、法令で大々的に公開され民衆に分かりやすい、政府による障害者優遇措置のようなものとはまったく性格の異なるものです。

障害者の開放

障害者と呼ばれる人たちが、その種類も人数も含め、ずいぶん増えてきたように思いませんか。その理由として、今まで室内に閉じ込められがちだった障害者が、昨今の開放風潮から外に出るよう促されがちだということも挙げられます。

障害名称の増加「発達障害」

その他に、障害と定義される疾患の名称が増えたことも理由かもしれません。

精神疾患の一種とされる「発達障害」と診断される人は、近年ずいぶん増えました。私が、当時の診断名である「精神分裂病(現在の統合失調症)」と診断されたころ、発達障害という診断名を耳にすることはほとんどありませんでした。

配慮が行き過ぎると学習しない

「障害のある者に配慮すべき」といった文化の一方で、「同等の権利を持つ」障害者の実現も考慮しなければなりません。同等の権利を持つということは、「同等の義務を課される」ということです。

配慮とはその場しのぎ

配慮って、いったい何なのでしょう。

障害のある無しに関係なく、そのくらいは我慢することが普通であるような不都合や、主張するには無理のあるわがままにさえ、行政が逐一言われるままに応じることが、配慮なのでしょうか。

作業所と呼ばれる「就労継続支援B型事業所」で、仕事に関する同じような質問を何十回も繰り返す利用者がいます。その多くは、一時的な記憶を留めることさえ難しいといった、事情を持つ人たちです。

しかしそのような事情を持つわけではない利用者の中で、十分に作業が可能であるにもかかわらす、メモを取ったり必死に復唱したりするなど、覚えようとする努力の気配すら見せることがない人たちもいます。

それでも、指導員はつとめて、初めて質問される時と同じように丁寧に応えなければならないのでしょうか。それが配慮なのでしょうか。

出勤時刻に毎日毎回15分遅れる利用者に、「プレッシャーを与えないために」、時間を守る重要性も教えず黙認を続けることも、配慮なのでしょうか。

あらゆる業務に時間制限を一切設けず、時間的なプレッシャーを与えないことが、配慮なのでしょうか。

もちろんそれには、障害に関係する理由を持つ人も多いことでしょう。でもだからこそ、本人が可能であれば、障害者自身が向上する努力を示し、甘えの効いてしまう制度への反抗を見せなければなりません。

そうでなければ、彼ら自身がいつまでたってもその環境から脱することはできないのですから。

対処してそれで終わり

ウミガメの鼻腔にストローが刺さっていたからストロー「だけ」中止するカフェ。

アイドルの握手会でケガが起きたから「そこから急に」握手をやめにするイベント。

長年歩行者が危険にさらされてきた信号のない道路で、「予算がまとまらない」はずなのに、歩行者の死亡事故が起きた途端にあっという間に信号機が設置される地方。

障害者就労継続支援施設における配慮って、これらに似ていませんか?

誰のための配慮

逐一対応はしているけれど、出来事をあらかじめ防いでいるわけではないし、原因の改善については少しも議論されず、対応は現象の後始末に終わるだけ。

配慮された障害者自身が何かを学び、社会の一員として生きていくために、精神的に鍛えられるようなことは一切ありません。

本当に必要な障害者への配慮とは、見えやすい部分に対するものだけではありません。見える部分への見えやすい配慮だけなら、それはそれは分かりやすいものでしょう。

しかし、精神障害を持つ障害者に必要な配慮は、もし徹底的にやるならやるで、障害者が精神的に学習し「鍛えられる」方向でなされるべきものです。

そのためには、本人の責任と権利と義務の所在を明らかにし、本人に理解させなければなりません。そして、それらを守らせます。拒絶するなら、権利を得る権利も無いことも。

拡大するのはいいけれど、区切りのはっきりしない障害者への社会的扱いのあいまいさに、どの組織も身悶えている印象を受けます。こんな時代に必要なのは、障害者の義務に関する議論ではないでしょうか。その義務とは、とりもなおさず「社会人としての義務」と同じです。

障害者がこれまで、多くの制約を受け差別にあってきたことは事実です。だから、今になって権利の与え方に誰もが迷っています。

権利と自由を与えすぎることは優しさではないし、愛情とも呼べません。そういう対処は違う方向に向けられた、これまでと同じ「異質への対応」でしかありません。

だから、まず本人の意識の面で、障害者にも同じことを求めなければなりません。

近年広まりつつある、健常者のそういった努力を手助けできるのは、障害者自身から発信する自制心の効いた常識でしかありません。

もちろん、権利とは本来あるべき権利です。障害者が悪びれる必要はありません。しかし、障害者自身が危機感を持たないなら、兆しの見えはじめた変化のチャンスを逃すことにもなりかねないでしょう。

本来の環境、本来の権利であることは確かです。

でもここはしたたかに、本来得るべきものを確かなものとするためにも、永続的な厚遇を確かなものにするためにも、障害者たちが一時的な踏ん張りを見せなければなりません。

今が、これまで無数の障害者が多くの差別と偏見を乗り越えてきた果てにようやくたどり着いた、正念場だと思えるのです。

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