私は、コミュニケーションを取ることが苦手だ。

例えば、一対一で会話をする分にはまだ良いのだが、3人以上で会話をするとなると、どのタイミングで発言をすれば良いのか分からなくなってしまう。
だからこそ、どうにかタイミングを図ろうとするのだが、結局誰かと言葉が被ってしまったりして、残念な結果になるのだ。
更には同時に、多くの人の中でコミュニケーションを取らなければならない場合、あちこちで発される言葉が全て耳に入ってきてしまって、どの言葉を聞けば良いのかも分からなくなる。
そうして、キャパシティオーバーになり、1人でパニックに陥ってしまうのだ。

このようなことが気になり始めたのは、中学生の頃だった。
それこそ、3人グループで行動をするようになったのだが、その中で「おしゃべり」をすることが上手く出来ない。
何故か、友人である2人の輪に入っていくことが出来ないのだ。
2人が楽しそうに会話をするのを見ながら私は、その2人にただくっついているだけ。

当時はあまり気にしていないつもりだったが、今思い出せばやはり、寂しい気持ちがあったと思う。
寂しさを感じたくないという気持ちから、その気持ちに蓋をして、無意識に頑張っていたのだ。

そうして高校生になると、その頑張りが悪い方に傾いたのか、徐々に体調を崩していく。
その体調に振り回され、実際に人とのコミュニケーションが取れなくなっていった。

打開策として、返答に幾つかのパターンを用意して、誰かから話しかけられた時でも瞬時に対応出来るようにしたが、やはり「想定外」が存在する人とのコミュニケーション。「そうなんだ」や「だよね」といった淡白な言葉しか返すことが出来ず、上手くいくことはほとんどなかった。

どうしようもなくやるせない。
そして、そんな自分が許せなかった。

あれから年月は経ち、最初に書いたように、今も私はコミュニケーションが苦手だ。
それでも少しだけ、自分を許すことが出来るようになってきたように思う。

体調に難ありの今、病院に通う中で、コミュニケーションスキルや感覚過敏の問題から「発達障害疑い」ということになり、そこから救われた部分もある。
これは発達の問題であり、私自身が悪いわけではない。
そう考えることが出来るようになって、自分に自信を持つことも少しずつだが出来るようになってきた。
発達障害を盾にして、自分を甘やかすことは良いことではないが、それを認めることで前に進むことが可能になるのではないかと私は思う。

このようにコミュニケーションが苦手な私だが、それでも人恋しさを感じ、接触を試みることが当たり前のようにある。
それに、自分が困った時に助けてくれるのは、もちろん人なのだ。
今も、コミュニケーションを取ることに四苦八苦してはいるが、出来るだけ一対一で話すことを意識するなどして、自分に負担のかからないラインを見つけ出し、その範囲内で人との交流を持つことは出来ている。

無理に人と接触して体調を崩してしまっては、それはマイナスでしかないのだ。
純粋に人と交流を持って、嬉しいと感じること。
それが一番大切なことであって、理想的な生き方であると私は思っている。