2018.6.10:フリーペーパーVol.27発刊!

満員で身動きのとれない雨の日の路面電車

朝から小雨が止まないその日、普段バスを多用する私は、思いつきから路面電車で会社に向かおうと乗り込みました。

鹿児島市で通勤に利用できる公共交通機関は、主にバスか鹿児島市の運営する路面電車のどちらかです。路面電車は地元では「市電」と呼ばれています。

雨の日の混んだ路面電車

乗り込んで最初に思ったのは「そういえば、混むのだった」という後悔でした。
バスに比べて市電は、運賃が片道あたり60円安く設定されています。

鹿児島市の繁華街でありビジネス街でもある天文館まで乗った場合、一律料金の市電なら片道170円です。一方、バスは距離などに応じて区間で運賃が変わるので、天文館まで乗ると230円でした。

定期券ともなれば1カ月でバスと市電は約2,000円も違うので、同じ区間なら市電を選ぶ人が多いのです。加えてその朝は雨で、車内も駅を通過するほどに満員でぎゅうぎゅうになっていきました。

満員で前に進めないのにすぐ閉まるドア

自分の降りる駅が近づき、降車ボタンを押して停車を待ちました。
混む車内で人をかき分けるように少しずつ前に進んでいくと、あと2メートルで降車ドアというところで運転士はドアを閉めようとします。

私は「え?」と思って「ちょっとちょっとちょっと、ちょっと待って、降りますから」と運転士に訴え、再び空いたドアから降車したのですが、満員事情を考慮しない運転があまりにひどいと思い、その際「人でいっぱいなんだから、ちょっとは待たないと」とひとりごちて降りました。

仮に、私が歩行に不自由のある障害を持っていたなら、間に合わずに駅をそのまま通過してしまったでしょう。もし発話に障害があって喋ることのできない人だったなら「待って」と伝えることすらできないでしょう。

社会通念としてのインフラ不足

私は障害者ですが、自分の意思を伝えることはできます。
だから降りることが出来ました。

しかし、普段は障害者への親切な対応を旨としているはずの公営公共交通機関が、私という障害者の円滑な乗降を自ら妨げるような運転を行ったことには矛盾を感じたし、合理的配慮の不足にも呆れてしまいました。

以前から、この乗り物での降車の不便は感じていました。
1両だけの編成で、乗車と降車別々にドアが設定されていて、前方の降車ドア付近がどれだけ混んでいても空いている後ろのドアから出ることは許されていません。

一旦後ろから出てホームを歩いて前に戻り、停車している電車の外から前方のICカード機にタッチして運賃を精算するなどの工夫も許されてはいません。

乗客が運賃を払わず逃げてしまう恐れもあるでしょうから、確かにそれは仕方のないことかもしれません。

しかし、雨の日など傘や手荷物が普段より多く、降りるのに普段以上に手間がかかる日など、さっさと降りろと言わんばかりのドア開放時間の短さには「もう少し改善しようという工夫はないの?」と思わずにはいられません。

短時間しか待たないなら、仕方ないそれなら早く精算しようと工夫してもそれは電車側が禁止する。
それではと、時間はかかるがルールだからやむを得ない密集した乗客の背中を押しのけながら「すみません」と本来必要のない謝罪までこちらが述べながら車内をかき分け降りようとしても待ってはくれない。

じゃあ、どうすればいいのよ?

障害者が乗車している可能性を考慮しているか否かという点についても疑問が残ります。
今回はたまたま、脚が健康な私だったから降りることができましたが、足の不自由な人だったら間に合わなかったでしょう。

障害者差別解消法など、法律の条文だけはいつも立派に出来上がりますが、一つひとつの案件で実際に障害者を守るのは、障害者の立ち会った現場に居合わせる「」でしかありません。

名も知れぬ一人ひとりの障害者が不自由を感じず日常を送れるような合理的配慮は、いまや努力義務ではなく法律で強制されるところとなりました。

そのことを、私たちは自覚する必要があります。そして、権利を明瞭に主張して行使しようとすること自体を良しとしない日本的な風潮も、障害者が今後はっきり自己主張し、自分の権利を当然のものとして行使し続けることで、打ち破っていかなければならないことではないでしょうか。