うつ病の症状として発信されていますが、希死念慮というものがあります。
ストレートに「死にたい」と思ってしまう現象。私は、発症した高校時代にそれが酷かったです。
しかし「死にたい」と直接的な言葉はほとんど使わず、それでも強い希死念慮を持っていました。
希死念慮ってどんな感じ?
希死念慮は「死にたい」という表現をし始めると危ない。そう、まとめてあったりもしますが、
「消えたい」「遠くに行きたい」という言葉も希死念慮に入ります。
私の場合は、遠くに行きたいという感情が強く、そして自分が消えていくイメージを感じていました。
遠くへ行きたくて、母の車で本当に遠く遠くへドライブをしました。
当然、身体は遠くに移動します。しかし、心は遠くへ行きません。虚しさを感じていましたが、外出を繰り返しました。結局は、その意味を見失っていきます。そして、その後に感じ始めたのは、自分が薄くなっていくような感覚でした。
当時は、そのまま消えてしまいたいと思うほどで、それはきっと、息苦しく感じてしまっている社会の中から、逃げてしまいたかったのではないかと思っています。
希死念慮の形と私の幻想
実際のところ「遠くに行きたい」の「遠く」はどんなものなのでしょうか。私のイメージでは、緑が多くあって、澄み渡った青空。コテージがあって、誰かは分からないけれど、私の隣で笑っている人がいる。リアリティのあるものは全て消えていて、まるで楽園。そしてそこは私を守ってくれるという確信を持てるような場所。
そんな場所、どこにもないだろうとは分かっているけれど、行き過ぎた妄想をしてしまいます。
最近でも調子が悪くなってくると、温泉旅館やコテージがある場所。貸別荘など、個人的には少しでも楽園に近い場所をスマホで調べてしまいます。
もちろん、私が求める楽園のような場所はないのですが……。
「生」に繋げる
希死念慮は、周囲の人がそれに気づいたとき、やはり驚いてしまうでしょう。そして当人は極論「死んだ方がラク」と考えてしまっているケースが多いので、放っておくわけにもいきません。
私が希死念慮が強くなってきた時にする対策は、
・極力ストレスから離れる(私はほとんど外出しなくなります)
・自分一人で抱え込まず、信頼できる人に今の気持ちを話す
・逆に、今話しをする必要のない人とは連絡を取らない
・夢と現実の区別をつけながらではあるが、無理に希死念慮を抑えようとしない
という感じでしょうか。
そして私の中で、人に救われると感じるのは、
・ひたむきに話を聞いてくれる
・その話を否定しない
・不安な気持ちで見るのではなく、本人を肯定するように見守ってくれる
このように、今回は私の体験と、当事者。そしてその周囲の人にしてもらいたいことを書きました。これは本当に他人事ではないと、私は思っています。当事者でも、そうではなくても「生と死」に関わる話です。
非現実的に感じることですが、道端に転がっている欠片を見逃さないことも重要なのではないでしょうか。
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