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2024/11/10:フリーペーパーvol.104発刊!

This is WHO I AM【第1シーズン】―「ザーラ・ネマティ」車いすアーチェリー

努力に裏打ちされた強靭な精神力、先駆者ネマティがオリンピックに出場

ロンドン大会のパラリンピック金メダリストであり、リオ大会ではイランの旗手を務めたザーラ・ネマティが、母国と女性一般のために競技に臨んだ。なお、オリンピックでは敗れている。

脊椎損傷

ザーラ・ネマティにとって本来の希望は、テコンドーでオリンピックに出場することだった。子どものころからおてんばだったネマティは格闘技に魅せられ、瞬く間に黒帯を取得した。

その後、イランの代表チームに選ばれるが18歳で交通事故に遭い、脊椎を損傷した彼女は両足の機能を失った。

オリンピック・パラリンピック両方に出場

それから13年後、ネマティにとって初めてのオリンピックの舞台は、ラザロ(新約聖書より)のように急速に回復したわけではなく、車いすでの出場となった。

彼女は車いすでリオの会場を回り、歩道のひびや縁石の高さなどを見て回った。パラリンピックにも出場する彼女にとって、それは自分に与えられた特別な役目とも言えるものだった。

イラン人女性初の両大会金メダル

そのため、大会での彼女は他の選手の中でも目立っていた。オリンピック終了後、9月に開幕するパラリンピックにも出場する選手は他にいなかったからだ。

オリンピックとパラリンピックの両大会を通じイラン人女性として初の金メダルを獲得し、2012年に続くパラリンピックでの連覇を狙う選手となった彼女にとって、目立つことは無理も無いことだったといえる。

テコンドーからアーチェリーへ

ネマティの獲得した金メダルはテコンドーではなくアーチェリーのものだった。

彼女にとって、好きなスポーツができなくなることは到底受け入れがたいことだった。
日本のドキュメンタリー番組、WOWOW TVのクルーからの質問に次のように語っている。

「テコンドーの選手としてはもう脚が使えないの。それは腕を失ったピアニストのようなものよ」

イラン人女性へのメッセージ

ロンドン大会の終了後、彼女は次のようにも語っている。

「私は、イランの若者たち、特に女性に伝えたかった。イランの女性は決して他の国の女性より劣ってなんかいないって。私はパラリンピックで優勝してメダルも獲れた。固定観念を破りたかったし、それが実現できて嬉しかった」

旗手として

さらに彼女は、マラカナンスタジアムで行われた金曜日の開会式で、選手団のほとんどを男性が占めるなか、イラン人女性として初の旗手を務めた。

自分を信じる

事実、彼女がパラリンピックでもう一つの金メダルを獲得するのは現実的な目標といえる。

サンボードロモで火曜日に行われた予選を終えた彼女は、世界ランキング49位でありながらも、初出場となる今回のオリンピックでの目標を高く掲げている。

本命とは目されていないが、彼女の目標は金メダルだ。

「一番大事なのは自分を信じること。そうすればどんなことでもうまくいく」

泣き言は言わない

意思の強さはこれまで彼女の強みとなってきた。
引きずってクヨクヨしない性格も同じく彼女を支えてきた。

事故の後も、彼女は惨めに落ち込むことはなかった。

母親のファテメは先にあげたドキュメンタリーで次のように話している。

「あの子はいつも笑顔でした。不満を漏らしたり泣き叫ぶこともありませんでした。そんなことって、信じられますか?」

練習の鬼

唯一の難点といえば、彼女が選手団にいると他の選手が怠けているように見えることだ。

あるチームメートはWOWOWのディレクターに対し、少しきまり悪そうに答えている。

「自分が恥ずかしく思えてくるんだ。健康な肉体を備えたチームメートが疲れているときで、彼女はいつも練習している。本当に僕たちを励ましてくれる」

新しい競技との出会い

ネマティが競技種目を変更せざるを得ないことが明白になったとき、彼女が選んだのはアーチェリーだった。事故から3年後の2007年、彼女は初めて弓を取った。

「アーチェリーは私を強くしてくれたの。強さの意味も教えてくれた」

31歳のネマティは番組中でそう語っている。

「自動車事故に遭って、18歳のときに歩けなくなった。死んでしまうかもしれなかった。でも、幸運にも生きるチャンスを得られたのです」

ロハムとの婚約

ロンドンでのパラリンピックは、ネマティにとってスポーツを超える重要な意味を持つものとなった。

金メダルに輝いた夜、彼女は同じくイラン人でアーチェリーのパラリンピック選手、ロハムと婚約する。

選手村ではその夜、代表選手の仲間が二人を祝福した。
数年前に他の集会で出会っていた二人には多くの共通点がある。

電気技師だったロハムも生まれつきの障害者ではなく、2001年に、落下するポールが直撃し背骨を損傷している。

数少ない両大会出場者

同じ年にオリンピックとパラリンピックの両方に出場した選手は限られている。

最も有名なのはオスカー・ピストリウスで、2012年に両大会出場を果たした。
現在、彼は違う意味で有名になってしまっているが。

また、アーチェリーの選手が最後に登場したのは1996年、アトランタ大会でのこと。イタリア代表、パオラ・ファンタトだった。

実績

一方、ネマティは堂々と競技して予選を通過している。昨年の2015年、タイの首都バンコクで開催されたアジアパラアーチェリー選手権大会で卓越したパフォーマンスを披露し、女子リカーブ部門で銀メダルを獲得した。

静かな心

ネマティは火曜日、サンボードロモの人工芝の上で競技に臨んだ。白いヘッドスカーフとメガネを着用した彼女の表情は静かで落ち着いているように見えた。

ロシアのステパノワとの対戦で1本目に10点満点を記録し上々の滑り出しを見せると、まばらな観衆は一斉に彼女に味方した。

ステバノワの取った第1セットは静かに終了し、8点1回と10点満点2回を記録してネマティが取った第2セットは歓声がとどろいた。「アーチェリーには静かな心が必要なの」試合前にネマティは語っている。

相手が素晴らしかった

結局、試合は3−1でステバノワが勝利した。試合後、ネマティは涙があふれ、すぐには話すことができなかった。帯同した通訳が懸命に彼女をなだめ、リーポーターからの質問にようやく答えた。

「全力を尽くしましたが、相手が素晴らしかった。それが敗因です」

メッセージ

オリンピックはパラリンピックとは違うと、ネマティは語っている。

「ここで感じた最大の違いはストレスの強さ。オリンピックの方が強いストレスを感じます」

さらに世界中の障害者に伝えたいメッセージは何かと問われると彼女は元気を取り戻し答えた。

「障害に、決して負けないで

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