歴史的に見ても、幼くしてほぼ何も無い状態から、とてつもなく多くのことを成し遂げた者は、ほとんどいない。

脊椎の一部に穴が開いている二分脊椎症を患うタティアナ・マクファデンは生まれて6年間、車いすさえ持たず、まさに何も無い状態でロシアの養護施設で過ごした。

下半身麻痺で、他に移動するすべのないタティアナは、他の子どもたちに追いつこうという単純な理由で逆立ち歩きを覚えた。

小さな子どもとしては極めて強力なその両腕と両手が、いずれ彼女を世界で最も偉大なアスリートとして世界中を移動させることになるとは、彼女自身はほとんど知るよしもなかった。

デボラとの出会い

1994年、当時のアメリカ合衆国保健福祉省委員を務めていたデボラ・マクファデンがタティアナと出会ったのは、彼が他の仕事で養護施設を立ち寄った時のことだ。

タティアナはデボラとの何らかのつながり、両者は共に生きるべきという説明できない感情を覚えた。

デボラは彼女を養子として預かり、アメリカへ連れて帰った。
そして彼女に、車いすと新しい人生を与えた。

障害を持つアスリートになる

移動は困難を伴い、タティアナは健康を損ねた。
健康を回復し体力をつける目的で彼女はいくつものスポーツ団体に入った。

その試みは功を奏し、またそれ以上に、タティアナの類まれなるアスリートとしての人生が始まることになった。

彼女は目につくスポーツは何でも試した。
車いすバスケットボール、水泳、アイスホッケー、それに、スキューバダイビングまで。

中でも車いす競技には初めから夢中になった。
車いす陸上に出会って、彼女の強靭な両腕が早くも成功をもたらすことになる。

パラリンピックメダルラッシュの始まり

タティアナは2004年のアテネ大会に選抜され、15歳でパラリンピックデビューを果たした。

当時の彼女はアメリカ選手団の最年少。この大会で初のメダル2個をギリシャから持ち帰り、同時に世界一になりたいという夢を抱くことになる。

そしてその夢は2年後に達成されることとなる。

世界選手権で100メートルの世界新記録を叩き出し、金メダルに輝いた。
2008年パラリンピック北京大会では19歳で参加するが、それは彼女のアスリート人生としてはまだ初期にあたる。

北京で4つのメダルを獲得すると2012年にはさらに4つのメダルを獲得。
そのうち3つは金メダルだった。

さらに1年後の2013年世界選手権では、同一大会の6種目すべてで金メダルを獲得する初の女性選手となった。

彼女の独占状態は最高潮に達していたが、当時まだ若干24歳だった。

タティアナと車いすのマラソンとの出会い

2009年にはマラソンに転向し、シカゴマラソンで初出場初優勝。
彼女の快進撃はここからさらに続くことになる。

2013年にはボストン、ロンドン、シカゴ、ニューヨークシティマラソン全てで優勝し、障害の有る無しに関わらず(1年間で4大マラソンを全制覇する)男女を通じて史上初の年間グランドスラムを達成した。

2014年に再びグランドスラムを成し遂げると、2015年にはロンドンとボストンを制した。

挑戦は続く

常に新たな挑戦を追い求めるタティアナはロシアでの競技参加を希望し、2013年、ソチ・パラリンピック代表の座を得るため、クロスカントリースキーレースへの出場を決意した。

雪上競技の経験は1年に満たなかったが、ソチ大会で冬季パラリンピック初出場を決めた。
本番では劇的なレースを展開し、ゴールテープを前に惜しくも金を逃したが、銀メダルを獲得。

そのメダルは、冬季オリンピックで彼女がそれからさらにメダルを量産する予兆でもあり、同時にパラリンピック全種目を通して自身11個目のメダルを記録するものだった。

研究者として

2014年に人間発達と家族の研究で学位を取得しイリノイ大学を卒業したタティアナは、教育学の卒業研究のためイリノイ大学に戻ってきた。

競技にも出ず研究にも関わらないとき、彼女は障害者の権利平等を追求する国の代表であり、生涯にわたるガールスカウトの一員であり、イリノイ州の二分脊椎症理事会に出席し、健康な生活について老若男女に語りかける役割を担っている。

障害者の権利を求める戦い

マクファデンは高校時代に競技者として苦い思いをした経験がある。

アットホルトン・ハイ・スクールでは、健常者と同じ条件でのレースが許されず、大会本部は車いすが安全上の問題を引き起こし、同時に公平でないアドバンテージ(車いすレースのトップアスリートは長距離において一般走者を超える目覚ましい速度で走る)を与えると判断した。

彼女は高校では区分された車いす競技に出場していた。
その結果、他に誰もいないトラックを走ることになり、自身、違和感を感じながら走っていた。

新法の成立

2005年、タティアナと父のデボラ・マクファデンはハワード・カウンティーの公立校制度について訴えを起こし、勝利。

その結果、クラスメイトと一緒に競争する権利を勝ち取った。

連邦地方裁判所判事、アンドレ・デイビスは「彼女は名誉やお金のために訴えたのではない、彼女はただ、他の人が出場するなら自分も出場したいと思っただけだ」と語っている。

彼女の訴えにより、後にメリーランドに新法律(Maryland Fitness and Athletics Equity for Students with Disabilities Act)が制定されることとなる。

学校は、障害のある生徒たちに学校対抗戦での平等な出場権を約束した。アメリカ全土にわたり障害のある学生が平等な権利を得られるよう、タティアナはさらに圧力をかけ続けた。

2013年には、すべての障害のある生徒たちが学校の大会に出場する機会を得られることとなった。

さらに、ロシアで2012年に定められた、ロシア人の子どもがアメリカ人の両親に養子にとられることを禁ずる法律に対抗する運動の主導者でもあるが、この試みは何度も失敗に終わっている。

彼女は障害者の権利の平等を追求する国の代表であり、生涯にわたるガールスカウトの一員であり、イリノイ州の二分脊椎症理事会に出席して健康な生活について老若男女に語りかける役割を担っている。