昨年「感動ポルノ」と比喩された、24時間テレビ。
今年は当日にマラソンランナーを指名すると発表し、物議をかもしている。
誰が走るかの発表は当日でも、トレーニングの必要があるから本人には事前に通達がいってると考えるのが妥当でしょうね。
怪我なく完走を!今年の24時間TVマラソンランナーは当日発表!「未発表」のまま8月本番へ(スポニチアネックス) https://t.co/nZF0Xc9w0a
— 石王英臣@Lieder-Kranz (@Lieder_Kranz) July 30, 2017
24時間テレビは社会の縮図!?
「かわいそうに…」「頑張ってね」と涙を流す人、物やお金をくれる人、「お母さん、大変ね。」「他に兄弟がいるならよかった。」と親や兄弟を憐れむ人。
これまでにわたしは、知らない人からこのような言葉や対応を受けることがあった。
なので、いい大人が障害者を見てオイオイ泣こうが、「わたしたちも頑張らなきゃって思いますね」などと”自分”と一歩引いたコメントをしようが、正直大きな問題と捉えていなかった。
自分にとってはありうることで、それ以上に普段は「危ないから」「責任がとれないから」と止められるような体験を挑戦している、その姿に魅力を感じていた。
(このような体験に関しても、いろんな議論や問題があるようだが。)
テレビを見ながら、友人と「もし、依頼が来たら何をしたいか」という話で盛り上がったものだ。
わたしは自分の力だけで登山をしてみたかったので、まず筋力がアップされる全身スーツの開発を要望つもりだったw(開発、求む☆)
結局は画面越しの世界
しかし、どうだろう。
今にして思うと、わたし自身も自分は周りと違う存在であり、その違いを都合のいい部分だけ利用していたところがある。
都合が悪い部分は、周りがそう受け取るのだから仕方ない、と自分も周りも変えていく努力をせずに受け流すようにしていた。
そんな自分の考えは身勝手で、幼かったように感じる。
カンニング竹山、日テレ24時間TVを批判「健常者を勇気づけて、感動させるだけの目線。障害者を感動させるモノとして使っちゃう」~ネットの反応「あの手の番組ってなんでなくならないんやろ そんなに儲かるんか?」 https://t.co/tYO6oX9SmP
— アノニマス ポスト (@anonymous201504) August 9, 2017
たとえば実際に依頼を受けたとして、挑戦するわたしを見て涙を流し、”感動”の言葉に囲まれる。
それはきっと、テレビに出た後も続くだろう。
それを嬉しいと思う人もいるだろうが、わたしはそのひとつひとつに笑顔で応えられる自信がない。
結局、わたしも他人事としてテレビを見ていたのだ。
24時間テレビは必要か?
だが、やはりただ非難するだけに留めたくはない。
幼いころのわたしのように、いろんな障害があり、いろんな夢があることを知る人もいるはずだ。
自分も出来る日がくるかもしれない!と、ワクワクする子もいるかもしれない。
物議をかもしているからこそ、なぜこのような形がウケてきたのか、どう変えていくか、をもっといろんな人が掘り下げて考えてほしい。
極論をいえば、このような番組の必要性がなくなることが望ましい。
24時間テレビは日本に「チャリティー」という言葉を定着させるのに大きく貢献したし、個人的にはお涙頂戴番組でもいいと思っている。ただ、その為に障碍者に無茶な行動をさせて演出しているならそれは問題だと思うので、その部分は批判してもいいと思う。
— T.M.@ちぇるり隊 (@vha30) August 10, 2017
すべての人間は違い、つながっている部分がある。
違いだけを特化せずに認め合いながら、つながりを広げていく。
そのためにも、もっと良くも悪くもありのままの姿を伝えてほしい。
24時間テレビが、そんな番組になっていくことを願う。
http://www.ntv.co.jp/24h/
via:日本テレビ