昨年「感動ポルノ」と比喩された、24時間テレビ。

今年は当日にマラソンランナーを指名すると発表し、物議をかもしている。

 

24時間テレビは社会の縮図!?

「かわいそうに…」「頑張ってね」と涙を流す人、物やお金をくれる人、「お母さん、大変ね。」「他に兄弟がいるならよかった。」と親や兄弟を憐れむ人。

これまでにわたしは、知らない人からこのような言葉や対応を受けることがあった。

なので、いい大人が障害者を見てオイオイ泣こうが、「わたしたちも頑張らなきゃって思いますね」などと”自分”と一歩引いたコメントをしようが、正直大きな問題と捉えていなかった

自分にとってはありうることで、それ以上に普段は「危ないから」「責任がとれないから」と止められるような体験を挑戦している、その姿に魅力を感じていた

(このような体験に関しても、いろんな議論や問題があるようだが。)

テレビを見ながら、友人と「もし、依頼が来たら何をしたいか」という話で盛り上がったものだ。

わたしは自分の力だけで登山をしてみたかったので、まず筋力がアップされる全身スーツの開発を要望つもりだったw(開発、求む☆)

結局は画面越しの世界

しかし、どうだろう。

今にして思うと、わたし自身も自分は周りと違う存在であり、その違いを都合のいい部分だけ利用していたところがある。

都合が悪い部分は、周りがそう受け取るのだから仕方ない、と自分も周りも変えていく努力をせずに受け流すようにしていた。

そんな自分の考えは身勝手で、幼かったように感じる。

たとえば実際に依頼を受けたとして、挑戦するわたしを見て涙を流し、”感動”の言葉に囲まれる。

それはきっと、テレビに出た後も続くだろう。

それを嬉しいと思う人もいるだろうが、わたしはそのひとつひとつに笑顔で応えられる自信がない。

結局、わたしも他人事としてテレビを見ていたのだ。

24時間テレビは必要か?

だが、やはりただ非難するだけに留めたくはない。

幼いころのわたしのように、いろんな障害があり、いろんな夢があることを知る人もいるはずだ。

自分も出来る日がくるかもしれない!と、ワクワクする子もいるかもしれない。

物議をかもしているからこそ、なぜこのような形がウケてきたのか、どう変えていくか、をもっといろんな人が掘り下げて考えてほしい。

極論をいえば、このような番組の必要性がなくなることが望ましい。

すべての人間は違い、つながっている部分がある。

違いだけを特化せずに認め合いながら、つながりを広げていく。

そのためにも、もっと良くも悪くもありのままの姿を伝えてほしい。

24時間テレビが、そんな番組になっていくことを願う。

日テレwww.ntv.co.jp

via:日本テレビ