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今だから知りたい、元世界チャンピオン川島郭志の栄光と挫折

川島郭志というボクサーがいたことを、ご存知だろうか。
1994年から1997年にかけて王座に君臨した、元WBC世界スーパーフライ級チャンピオンだ。

川島は徳島県海部郡海陽町に生まれている。

画像引用:ミドルエッジ

華麗なディフェンス技術で名を馳せ、「”Untouchable”(触れることが出来ない)」の異名を持つ、世界タイトルを6度防衛した名チャンピオンとして知られている。

川島は3歳の時からボクシングを始めている。父である郭信自宅の裏庭サンドバッグ腹筋台だけの小さな練習場を構えた。練習は1日2回行われ、16:00から一時中断をはさみ21:00過ぎまで、高校を卒業し上京するまで続くことになる。

画像引用:ミドルエッジ

現役時代はサウスポー(左構え)だったが、小学4年生まではオーソドックススタイル(正統派の右利き)だった。川島が憧れていた当時の世界チャンピオン具志堅用高がサウスポーだったことと、対戦相手としてやりずらい左利きはなにかと有利、ということが、左構えに変えた理由だった。

中学生当時、川島の憧れのボクサーはシュガー・レイ・レナードだった。インファイトの強打を武器とするより、華麗なテクニックで相手をさばき的確にヒットを重ねダメージを積み上げていく堅実なボクシングスタイルは、後にチャンピオンとなる川島に大きな影響を与えた。

画像引用:ミドルエッジ

レナードは川島の好きな「巧くて強い」ボクサーであり、それは自分自身の姿でもあった。

プロになってからの川島の戦績は、デビュー戦1R39秒KO勝ち、2戦目4RKO勝ち3戦目3RKO勝ちと、順調に進んだ。

しかし4戦目に6RKOで負けると、5戦目は勝ったものの、6戦目にまさかの1RKO負けを喫する。

のちに世界チャンピオンとなるボクサーが、まだ新人王を争うような段階で2度も負けることはまれである。世界一にならなければならないのだから、国内の10回戦で負けて世界チャンピオンに勝てるわけがない。

しかし、川島は諦めなかった。転機となったのはプロ10戦目の試合だった。

川島は1Rに左拳を骨折してしまう。その後のラウンドは戦術を変更し、強打から手数を出してフットワークでかわすスタイルに変えた。そこには、川島にとって新たな発見があった。

リングは広いなあ

この試合をきっかけに川島のボクシングは「打たせずに打つ」、スピーディーなアウトボクシングに変貌を遂げていく。

その後日本王座を経てプロ17戦目、初の世界タイトルマッチを迎える。チャンピオンのホセ・ルイス・ブエノを相手に川島は11Rにダウンを奪った末、判定で世界チャンピオンになった。

その後6度の防衛を重ねるのだが、ベストバウトとして名高いのが5度目の防衛戦となる対セシリオ・エスピノ戦だ。

川島は挑戦者のパンチをほとんど被弾することなく、逆に細かな連打を的確にヒットさせ、各ラウンドで優位に立ち、ポイントを重ねていった。ヘッドスリップ、スウェーバック、ダッキングなど、華麗なディフェンス技術で相手を翻弄し、ほぼフルマークの判定勝ちを収めた。試合後の敗者に「カワシマはグレー卜チャンピオン、残念だが今夜はカワシマの夜だった」とまで言わしめている。

だが、ディフェンスの巧いボクサーにありがちな「打たれると弱い」面が、川島にも少なからずあったかもしれない。

2回KO負けすればリングを去ると言われるこの世界で、それでも諦めずに自分のスタイルを作って世界の頂点に上り詰めた川島の強さは計り知れない。ディフェンスとフットワーク主体の見た目地味なボクシングスタイルは、演出過剰気味の現在のボクシング界において好みの別れるところだろう。

しかし、アマチュアボクシングのエリートだった川島でも、プロでは謙虚に自分の弱点を見つめ直し、勝つためにどうすればいいか自分で考え実践して努力を積み重ねていった。才能にあふれていながら決しておごることなく、綿密に自らの弱点を克服していくその姿は、対戦相手にとって何よりのプレッシャーであったに違いない。

https://middle-edge.jp/articles/nfKA4

via:ミドルエッジ

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