「猫と島少女と、それから筋トレと」
夕方の涼しい風がふわりと頬を撫でる。
やっぱり、空気の中に潮の匂いが混ざっていた。千葉にいた頃にはなかった匂い。まだ完全には慣れないけれど、夕暮れの静けさも手伝って、ほんの少しだけ心が落ち着く気がした。
「……とりあえず、学校の位置を確認しておかないとな」
恒一はポケットからスマホを取り出し、地図アプリを開く。画面には、明日から通うことになる目的地が表示されていた。
『兵庫県立鳴門高校』
地図上の距離で見れば、アパートからは徒歩10分ほど。大した距離じゃない。散歩がてら歩くにはちょうどいい――そう思っていた。
……だが。
「……嘘だろ。坂、多すぎないかここ……?」
歩き始めてたった3分で、恒一は早くも自分の選択を後悔し始めていた。港のすぐ近くは平らな道ばかりだったのに、1歩住宅街の奥へ踏み込んだ瞬間から、目の前には延々と続く坂道と階段が立ちはだかっていたのだ。
右を見ても上り坂。左を見ても、どこへ続くのか分からない急な石段。
道幅も車1台がやっと通れるかどうかという狭さで、住宅の壁が近い。昔ながらの家々が並び、どこか昭和っぽい空気が漂っていた。風に洗濯物が揺れている。遠くで犬の鳴き声が聞こえるけれど、そして、とにかく静かだ。
「はぁ……はぁ……うわ、まじで迷路みたいだ……」
まるで古い家々の間を縫うようにくねくねと曲がりくねる道を前に、恒一の足はすっかり重くなっていた。息が上がり、額にじんわりと汗が滲んでくる。
「……これ、毎日通学で通るのか」
立ち止まって膝に手を置き、はあはあと息を整えながら、恒一は軽く絶望する。自分の体力のなさにうんざりした。
(……もっと普段から運動しておけばよかった……。中学のとき、引きこもってばかりいたから……)
運動不足の体には、この島の地形は甘くない。さらに目の前には容赦なく階段が続いていた。
「いや、待って……階段あるの聞いてない……」
ぶつぶつ言いながら、重い足で階段を上る。手ぶらの今ですら足が地味に重く、ハァハァ言っているのだ。恒一の頭の中に、恐ろしい想像が浮かび上がる。
(待てよ……明日、ここを通学するんだよな? 重い教科書が詰まったスクールバッグを持って、制服を着て……?)
あの大荷物を抱えてこの急な坂や階段を毎日上り下りするなんて、正気の沙汰とは思えない。想像しただけで、眩暈がしそうだった。
「……筋トレ、始めないと死ぬかもな、俺……」
へたり込みそうになる足をなんとか叱りつけ、夕日に照らされた最後の坂を上りきる。
「はぁ……はぁ……つ、着いた……」
ようやく最後の急な坂道を上りきり、恒一は思わず膝に手をついてその場にしゃがみ込んだ。たった10数分の移動なのに、全身から汗が噴き出し、息が苦しい。
ハァハァと荒い息を吐きながら、恒一は切実に呟いた。
「……っ、ちょっとマジで……運動しないとヤバいな、俺……」
呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げる。
汗を拭った視線の先――夕日に包まれた高台の上に、明日から通う新しい学校が立っていた。
敷地に近づき校門へ向かうと、年季の入った門柱には『兵庫県立鳴門高校』と書かれた銘板が掲げられている。
「……ここだな」
時間はすでに夕方。放課後の時間も過ぎているのか、校庭に生徒の姿はない。校舎の中に目を凝らすと、居残って作業をしている清掃員らしき人が数人見えるだけだった。
「……静かだな」
恒一は校門横の柵の隙間から、そっと中を覗き込んだ。
目の前にあるのは、どこか懐かしさを感じさせるコンクリート造りの3階建て校舎。
敷地全体がコンパクトにまとまっており、校舎の前に広がるグラウンドも決して広くはない。それでも、体育の授業やちょっとした部活をするには十分なサイズ感だった。そこまで広くないグラウンドだが、どこか気持ちを和らげてくれる落ち着く空気が漂っている。
ふとグラウンドの隅へ視線を向けると、古びた木製の小さな鶏小屋があり、中から時折「コッコッ」とのどかな鳴き声が聞こえてくる。そのすぐ隣には、授業用の野菜や花でも育てているのだろうか、小ぶりなビニールハウスがポツンと並んでいた。
千葉で通っていた学校とは違う、島独特ののんびりとした温かみが感じられる。
「……思ってたより小さくて、なんか可愛い学校だな」
夕空の下に佇む校舎を見上げながら、恒一はぽつりと呟いたその時、足元にふにゃりと温かく柔らかい感触があった。思わず視線を下げる。
「……ん?」
そこにいたのは、綺麗なキジトラ柄の猫だった。こちらの顔をじっと見上げながら、すり、すり、と恒一の足元に力強く頭を擦りつけてくる。毛並みが背中に触れるたび、心地よい温もりが伝わってきた。
「え?…猫……?」
戸惑いながらも、恒一はその場にそっとしゃがみ込んだ。
すると猫は「にゃー」と短く可愛らしい声で鳴き、まるで階段でも上るかのように、前足をちょこんと恒一の膝の上に乗せてきた。
「……めちゃくちゃ人懐っこいなぁ、お前」
恒一は指先をそっと伸ばし、緊張しながら猫の耳のあたりを撫でてみる。
猫は嫌がるどころか、うっとりと目を細めて頭を手に預けてきた。撫でる力を強めると、喉の奥から「ごろごろ……ごろごろ……」と小さなモーターのような音が聞こえてくる。
「お前、ここの学校の猫なのか?」
「にゃー」
まるで言葉が通じているかのように、間髪入れずに返事が返ってきた。
そのあまりの素直さに、恒一の唇からふっと笑みがこぼれる。
「はは……なんだよそれ、返事したのか?」
誰かと、あるいは何かとこうして触れ合うなんて、一体いつ以来だろう。昔、千葉の自宅近くで野良猫をそっと撫でた記憶が、温かい感覚とともに蘇ってくる。
猫は立ち上がり、恒一の膝の周りをくるくると楽しそうに回ると、再び「にゃっ」と短く鳴いて両前足を膝にドーンと乗せてきた。
「そんなに俺のこと気に入ったのか? かわええ……」
すっかり懐かれてしまった猫の愛らしさに、恒一の心の中に残っていた疲れや不安が、少しずつほぐれていくようだった。
その時だった。
「珍しいなぁ」
不意に背後から、少し高めの女の子の声が響いた。
「チコが男の人に心許すなんて、めったにないんよ?」
親しみのある関西弁のイントネーション。
人との接触に慣れていない恒一は、びくっと反射的に肩を震わせ、慌てて後ろを振り返った。そこには、買い物袋を片手に下げた1人の少女が立っていた。
橙色に染まる夕陽を背にしたその姿に、恒一は一瞬だけ息を呑み、目を奪われる。長い髪はすっきりとサイドテールにまとめられ、大きな瞳が眩しそうにこちらを見つめていた。カジュアルなTシャツカットソーの上に華奢なキャミソールを重ね着し、下は動きやすそうなデニムパンツ、足元にはラフなクロックスという装い。飾らない服装のはずなのに、全身から天真爛漫で弾けるような明るいオーラが溢れ出していた。
「あ……」
予想外の人物の登場に、恒一は緊張で身体をこわばらせ、小さく身構えた。すると、その少女は、恒一が身構えていることなど気にも留めていない様子で距離を詰め、隣にすんとしゃがみ込んだ。あまりの無警戒さに、恒一は思わず腰を引いてしまう。
「よしよし、チコ〜。今日もええ子にしてた?」
少女が慣れた手つきで顎の下を撫でると、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らし、彼女の手に顔を擦り寄せた。
「チ、チコ……?」
人見知りのせいで声が少し裏返り、恒一は引きつった返答を口にする。
少女は満足そうに目を細めて笑った。
「そう、この子の名前! ウチが勝手に付けたんやけどな。ちっこい頃からこの辺におるから『チコ』。安直やろ?」
「あ……いや、呼びやすくていい名前だと思う。……名前、あったんだね」
「そうやろ? かわええやろ〜」
誇らしげに胸を張る彼女の手元で、チコは2人の周りをくるくると楽しそうに行ったり来たりしている。恒一の膝に頭を擦り付けたかと思えば、次は少女のデニムの裾に体を擦り付ける忙しさだ。
「……確かに、すごく可愛い。男の人には懐かないって言ってたけど……本当にそうなの?」
「ほんまよ! ウチの父親が触ろうとしたら『シャアーッ!』って威嚇するもん。あんた、よっぽど怪しくない顔しとるんやねぇ」
「怪しくない顔って……」
苦笑いしつつも、見知らぬ同年代の女子と至近距離で会話している状況に、恒一の心臓はバックバクだった。視線をどこに置いていいか分からず、ひたすらチコの背中を撫でる手に集中する。
少女はそんな恒一のガチガチな様子を観察するように覗き込むと、ふふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「……ところで、あんた見ない顔やね」
どきり、と心臓が跳ね上がった。
「あ……」
「この島、顔見知りがほとんどやし。どっから来んた?」
「えっと……千葉、から……引っ越してきて……」
初対面の相手、しかも眩しいほどの明るさを持つ少女を前に、恒一はしどろもどろになりながら、蚊の鳴くような声で答えるのが精いっぱいだった。
すると――
「千葉!?」
少女が思わずといった様子で、突然大きな声を張り上げた。
「っ!?」
あまりの響き渡る大声に、恒一は「ひっ」と短い悲鳴を上げてびくっと肩を跳ね上がらせた。
それと同時に――
「にゃっ!?」
膝のところで気持ちよさそうに目を細めていたチコまで、驚きすぎて全身の毛を逆立てて跳び上がった。着地した瞬間、チコは脱兎のごとき勢いでダッシュし、あっという間に草むらの奥へと消えていってしまった。
「あっ……」
「あーっ!? チコ、ごめんってぇ〜!」
少女は逃げていくチコの後ろ姿に向かって手を伸ばし、情けない声を上げて慌てている。人見知りでガチガチになっていた恒一も、急展開すぎる目の前の惨状に、思わず口をぽかーんと開けて固まってしまった。
しかし、次の瞬間――
ぐいっ。
「なぁなぁ! 千葉って、ディズニーがあるところやんな!?」
「ち、近――っ!?」
顔が、近い。
しゃがみ込んだままの恒一の目の前に、少女がぐいぐいと顔を寄せてくる。大きくてキラキラした瞳が、至近距離で恒一をまっすぐに見つめていた。人見知りの恒一にとって、それは完全に危険水域の距離感だった。思わず後ろへのけぞりそうになるが、彼女の勢いはまったく止まらない。
「都会ってやっぱ、電車が何分かに一回とかでめっちゃ来るん!?」
「あ……まあ、うん。数分おきには……」
「すごっ! 芸能人とか見たことある!?」
「いや……見たことないけど……」
「うそやん!? 普通に歩いとらんの!?」
機関銃のように繰り出される質問の嵐。 少女の弾けるような大興奮に、恒一は完全に気圧され、圧倒されていた。
「えっと……あの……」
「千葉って何がおいしいん!? やっぱり落花生!? 落花生なん!?」
「ら、落花生……かな。ピーナッツとか……」
「やっぱりぃ! 本物やん! すごいやん!」
正直、何が「本物」で何が「すごい」のか、恒一にはさっぱり分からない。
「――だって、見てよこの島!」
急に少女は立ち上がり、大げさに両手を広げて周りを見回した。
「電車なんて走っとらんから移動は徒歩か自転車やし!町に行こうにも船でしか行けんし! 信号機なんて島に2つしかないんよ!? コンビニは11時に閉まるし! 娯楽といえば釣りか友達か、チコと遊ぶくらい! マジで海と坂道、階段しかないんやから!」
「あ、うん……」
「そうよ! だから『都会から来た』ってだけで、ウチからしたら異世界から来たヒーローみたいなもんやねん!」
あまりに堂々とした自虐っぷりに、恒一はぽかんと呆気にとられてしまった。
(……異世界って……)
さっきまでの緊張や人見知りがバカバカしくなるほどのエネルギー。圧倒されて引き気味だったはずなのに、気づけば恒一の口元には、ふっと小さな苦笑混じりの笑みがこぼれていた。
長々と繰り広げられた都会トークに花を咲かせていると、少女のポケットから「ぶるるるる」とスマホの振動音が響いた。
「あっ」
画面を覗き込んだ瞬間、それまで弾けていた少女の顔色が分かりやすく変わる。
「ヤバっ、お母さんや……!」
慌てた様子で通話ボタンをタップし、スマホを耳に当てた。
「もしもし!?」
『美空(みそら)ぁ! あんた買い物行ってどんだけ時間かかっとんの!? 晩ごはんの準備できへんやないの!』
スピーカー越しじゃなくてもはっきりと分かるほどの大音量。隣にいる恒一の耳にまで、母親の怒号がビリビリと伝わってきた。
「ち、違うねん! ちょっと途中でチコがおってな――」
『また猫触っとったんか!? ええから、はよ帰ってきなさい!』
「わかった、今すぐ帰るってぇ!」
ブツッと容赦なく通話が切れる。
少女は「あわわわ……」と両手で頭を抱えながら、本格的に慌て始めた。
「やばいやばい、早く帰らんと本気で怒られる……!」
ネギや牛乳パックが覗くスーパーのビニール袋を片手でギュッと持ち直すと、美空は思い出しかのように恒一の方をバッと振り返った。
「あ、そうや! ウチ、鳴海美空って言います!」
「……あ、俺は相沢――」
名乗ろうと口を開かけた瞬間。
「じゃ、またなっ!」
美空は太陽みたいな満面の笑顔でびしっと指を立てると、そのまま「だだだだっ!」と猛烈な勢いで坂道を駆け下りていってしまった。
本当に、嵐みたいなやつだった。
「……」
彼女が去ったあとの高台に、すーっと潮風と静寂が戻ってくる。
恒一は口を半開きにしたまま、彼女が消えていった坂道の先をしばらく呆然と立ち尽くして見つめていた。
やがてハッと正気に戻り、ぽつりと呟く。
「……鳴海美空……鳴海さん、か」
あの親切で賑やかな大家さんと同じ苗字。きっと親戚か家族なのだろう。
急に話しかけられて、とにかく騒がしかった。
パーソナルスペースなんてお構いなしで、距離も近すぎた。
正直、人見知りの自分にとっては圧倒されることばかりだったけれど――
「……でも、いい子だったな」
不思議と不快感はまったくなかった。むしろ、胸の奥に残ったのはじんわりとした温かさだった。
気づけば夕陽はさらに赤みを増し、瀬戸内の海をオレンジ色に染め上げている。
恒一は静かに足を踏み出した。
知らない町。
知らない学校。
知らない人たち。
過去のトラウマや不安が消えたわけじゃない。
けれど、この場所が安心できる場所になっている自分に、恒一はほんの少しだけ気づいていた。
おまけ
アパートの部屋にたどり着くなり、恒一は自室の畳の上へ崩れ落ちるように倒れ込んだ。
脳裏に浮かぶのは、足を打ちのめしたあの果てしない石段と急坂の地獄。そして、明日から毎日ここを通わなければならないという絶望的な現実だ。
「……マジで筋トレしないと、通学だけで命を落とす……」
息も絶え絶えになりながら、恒一は自分に言い聞かせるように呟いた。
「よし……今日から始めるぞ……!」
気合いを振り絞ってばっと起き上がり、畳の上に両手をつく。まずは基本の腕立て伏せからだ。
「くっ……い、いち……っ、に……!」
肘を曲げるたび、プルプルと生まれたての子鹿のように腕が激しく震え出す。日頃の運動不足が容赦なく襲いかかってきた。
「さん……し、ひぃぃ……っ、ご……っ……!」
限界を迎えた腕から一気に力が抜け、恒一はべしゃりと顔面から畳に沈没した。
「……無理……今日のは……カウント1回で……」
たった5回で完全にノックアウトされた恒一の部屋に、窓の外から届く穏やかな波の音だけが、どこまでも優しく響いていた。
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