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昭和の怪物である巨人の「江川卓」を探る

Graphic illustration of a baseball pitcher throwing a fast ball under the stadium lights. Check out my "Baseball Summer Sport" light box for more.

昭和の怪物江川卓のボールは、本当に速かった?

皆さんは、昭和時代にプロ野球選手として活躍した江川卓をご存知だろうか?

昭和を代表するピッチャー巨人軍のエース江川卓が投げる球は、「本当に速かったのだろうか?」、「現在の現役ピッチャーに比べ速かったのだろうか」など疑問は残るが、高校時代の公式戦記録は、高校3年間でノーヒットノーラン12回を出すほど、凄腕の能力を持った人物だと言える。

今回は、江川の過去の凄さをデータとともに探って行ってみよう。

高校時代が一番ボールが速かった

今でも語り継がれているが、高校時代の江川の球が一番速かったと聞く。その圧倒的実力で、作新学院のエースとして2年時夏の栃木県大会初戦から準決勝の9回まで36回連続無安打無得点の偉業をなしている。

江川の高校時代の公式戦記録は、高校3年間でノーヒットノーラン12回(うち完全試合2回)、連続145イニング無失点、公式戦通算で奪三振532(1試合平均13.5)/被本塁打0/被安打103(1試合平均2.6)となっている。

江川の地肩は、父の真似をして天竜川へ石を投げたところ、大人の飛距離に遜色なく対岸に届いた。以来、天竜川で石を遠投することを日課とし、これにより地肩が鍛えられることとなったらしい(本人曰く)。

巨人入りした江川の過去

1973年、江川はプロ野球の目に止まるようになるが、「大学へ進学しプロへは行かない」と明言した。また、進学先として慶應義塾大学を希望していることも明らかにしたのだ。

ドラフト会議時に、阪急ブレーブスが1位で江川の独占交渉権を獲得した。江川はドラフト会議終了後の記者会見で、「プロへは全く行く気がなかったので、阪急から指名されたといっても関係ありませんよ。だからスカウトの方にも会うつもりはありません」、「出来ればセ・リーグの球団。それも巨人に指名されて断りたかった」等と語った。

江川は、慶應義塾大学の法学部政治学科、文学部、商学部の3学部と、法学部政治学科の第一次、文学部、商学部に受験したが合格発表に名前はなくすべて不合格となった。その後、法政大学第二部法学部政治学科に合格し、法政大学に進学する。

1977年、江川にとって2度目のドラフト会議が開催され、クラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)が江川を1位指名した。

しかし、当時交際中だった後の夫人が東京在住のため遠距離恋愛を避けたいという点を考慮し、「首都圏のセ・リーグ球団なら」との思いを固めていたことを語っている。なお、ライオンズは福岡市を本拠地とするパ・リーグ球団のため、江川が望む条件とは大きくかけ離れていた。

ライオンズへの入団を拒否した江川はその後、卒業後の1年間に”野球浪人”することを決めたのだ。

1978年、3度目のドラフト会議前日、プロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ江川の去就をめぐる一連騒動が勃発した。別名「江川問題」、「江川騒動」、「空白の一日」とも呼ばれている。

ドラフト会議が開催されると、今度は、阪神が江川との独占交渉権を獲得したのだ。ドラフト会議終了後、球団代表が江川の実家へ電話であいさつしたが、江川の母親が「巨人の江川ですのでお会いできません」と返答。

翌1979年1月より、阪神は江川と入団交渉を行ったが、江川はトレードの確約を主張するなど交渉はまとまらなかった。

ところが、期限切れ直前の1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表した。こういう経緯で江川は熱望した巨人入りを果たしたのだ。

まとめ

このように、江川はプロに入団してからの成績は135勝と名球会に入会する200勝には程遠かったが、誰もが認める怪物ぶりを果たした野球人生を送る。

もし、高校卒業後すぐにプロ野球に入団していたら、名球会入りを果たすなどもっと注目される選手となっていただろう。高校時代の江川のボールをプロ野球選手に打たせてみたいものだ。

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