『トリツカレ男』いしいしんじ/著
お金持ちの悩みはそうでない人にとって嫌味になることもある
誰しも何かに悩んでいる。
悩みは個別的なものなので、人と比べて卑下したり、憤る必要はないだろう。もしあなたの友人が悩みを打ち明けてきたら、きっとあなたは彼ーーあるいは彼女ーーに寄り添うはずだ。
だが、その中で唯一、相手を敵に回す悩み相談がある。「私、痩せてて困ってるんだよね」だ。
本人は本当に悩んでいるというのに、世間はそれを許さない。そう、私は本当に悩んでいるのだ。
174センチ、52キロ。これがかつての私の平均体重である。だからよく女の子から「痩せてるね」と言われる。うっかり「深夜に何をどれだけ食べても太らないんだ」と言おうものなら、「は?お亡くなりになって」と言われる。昔一緒に住んでいた恋人に「なんで同じものを食べているのに私だけ太っていくのよ」と怒られたこともある。
でも、本当に悩んでいるのだ。言い分ならいくらでもある。そもそも骨格が華奢なやせ型なこと(骨格的にウエストが66cmで、20~24歳女性の平均以下しかない)、顔が大きいから相対的に身体が痩せて見えること。でも私が話せば話すほど「お亡くなりになって」の本気度が増す。
私は「食べても食べてもやせ衰えていくんだ」という、自分なりの処世術を見つけたが、このやりとりを人生で1万回くらいしていた。
仕事がきつかったこともあり体重が49.9キロまで落ちたとき、遂にやりとりに嫌気がさした。これだけ痩せているのに体脂肪率が14%と、男性の適性体重15〜20%と比べさして変わらないことも拍車をかけた。
私は決心した。「太ろう。食べても無理なら筋肉で太ろう」。以前スポーツジムインストラクターのアルバイトをしていたときに得た知識と技術を駆使し、最短最速でマッスルを極めた。
胸板は厚くなり、腕は盛り上がり、背筋もついた。太ももも大きくなった。体重は49.9→最大69.8と20キロもアップし、体脂肪率は逆に10%まで落ちた。自分史上最高ボディーを手に入れたのだ。
世界にはこんな格言がある「世の中の悩みの7割は筋肉で解決する」。
季節は夏だった。夏はマッスルを美しく魅せる。半袖シャツで職場に行く。
職場のお姉さんが私のマッスルを順に触る。胸(厚いでしょう?)。腕(盛り上がってますよね?)。背中(惚れてもいいのですよ)。お姉さんが私に語りかける。
「あなたはやりすぎた」
ーーそう、私はやりすぎた。なんとなくそんな気はしていた。温泉に行くたび友人に「ダビデ像のポーズ」をさせられるのは普通じゃない。これでは筋トレにとりつかれているようだ。何事も適度がいいのだ。
私は鍛えるのをやめた。今では体重56キロ。何事も適度がいいのに15キロ近くも落ちてしまった。
そして女の子に「痩せてるよね」と言われ、それはね……、と語り始めるのだった。
本の内容
小説『トリツカレ男』は、私のようにやりすぎる男が主人公だ。彼はいったい何にとりつかれたのか。温かい気持ちになりたいときにおすすめです。
このエッセイで紹介した本
『トリツカレ男』いしいしんじ/著