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大切な人がいなくなってしまった世界を生きる

ロス・ライフ

人は生きていくうえで必ず誰かの死と向き合います。そして故人が自分の人生において影響力が大きければ大きいほど、心に空いた穴の広さと抱えていく苦悩の深刻さが決まります。
今回は自分が体験したことを交えて「喪失感を抱えながら生きるということはどういうことなのだろう」という重いテーマです。そんなテーマを抱えて苦しむ人は言わざるだけで存在しているのは間違いありません。ですので、私が当事者の一例として記事に綴っていこうと思います。

心身のバグと生きる

私の場合は約5年間、交際し同居していた恋人との死別により命日反応で苦しんでいます。亡くなった日はもちろんですが、さらに故人の誕生日が近づくことで記念日反応として二重に苦しみます。例えば、故人の命日が5月で誕生日が10月だとすると年2回その月の前後がもっとも辛い時期です。そして、その日が近づけば近づくほど心身がまるで自分のものではないくらいコントロールが効かず絶不調に陥ります。具体的な説明としては以下の通りです。

・記念日反応(命日反応)とは
亡くなった人の命日や誕生日、結婚記念日など、思い出が深い特別な日が近づくと、気持ちが落ち込んだり、体調が崩れたりするなど、亡くなった直後のような症状が再現することがあります。 これらは「記念日(命日)反応」といって、大切な人を亡くした経験がある方にはよく起こりうる自然な反応です。

 

・心身相関について
心理ストレスや喜怒哀楽といった情動が体の調節に影響を与え、さまざまな身体反応が生じる現象は「心身相関」と呼ばれ、私達が日常生活の中で経験することです。 例えば、心理ストレスを受けると、交感神経系の活動が活発になるため、心臓の拍動が速くなるとともに、血圧や体温も上昇します。

↑上記はいずれもGoogle検索のトップにでた公式の説明をそのまま転載したものです。

死別反応とも言いますが直接的すぎると支障がある場合はアニバーサリー反応という呼称もあるみたいです。こういった反応が起きてしまう体験をされた方においては心身相関について特に実感されると思いますので、併せての説明となりました。心と体の歯車が噛み合っていないことで不具合(バグ)が起きます。いわゆる、ヒューマンエラーが生じやすい状態となります。それが生きづらさの正体であり、その状態のうえで死んだ人の分まで生きていきます。

良い想い出と悪夢が交錯する日々を生きる

良い想い出があった場所であればあるほど…懐かしんだあと悲しみがこみ上げます。
そして忘れた頃に当時を再現するかのような悪夢がリピートして眠れなくなります。

もはや心に残ってるなどといった曖昧なものではなくて、脳のシワになってしまっているのだと思います。
命日反応を意識しないようにということも試したんですが、不眠はどうしようもなく睡眠薬を飲んでいます。例として挙げる恥ずかしい出来事なんですが、中途覚醒して朦朧としてはいたもののいつものトイレをしたつもりが我に返るとリビングに向かって失禁という大失態を起こしたこともあり…家族に迷惑をかけてしまいました。それは命日前夜の出来事でした。意識を誤魔化しても、体が生理現象として反応してしまったのでしょうか?私にも説明がつかないことが私の中で起きてしまった一例です。ちなみに飲酒はしていません(むしろ苦手です)

脳のシワということを自覚してからは心療だけではなく脳神経の医師にもかかるようにしました。
私の治療は「眠剤を飲まず、悪夢をみず、自分の意思で眠りたい」という当たり前のことを悲願しています。
そのために必要なことを家族や理解ある方々のもとで克服していきたいと努力しながら必死に生きています。

また私の体験談で申し訳ないのですが、私は目の前で彼女の事故を目撃し救急車が来るまでに電話越しの救命士からの指示のもと心肺蘇生までして…その手で生命の喪失を体感しました。それがトラウマで「もっと適切にできていれば助かったかも…」と今でも自分を責めています。以前の記事でも述べたことがありますが、文字通りしばらく廃人化しました。「人の命はなんて、こんなに儚いものなんだ…」ということをできればそんな形で痛感したくはありませんでした。もう命も時間も取り戻せないと悟った私の人生において、もっとも苦悩していくであろう一生の傷です。

ところでなぜ、かぴばらの画像なのか気になったかと思いますが故人は生前よく「来世はかぴばらに生まれ変わりたい」というほど好きな動物でしたので、暗いイメージの画像よりも哀悼の意を込めてかぴばらの画像を添えました。大切な人がなにを好きだったか自分は覚えていること、人に伝えることで記憶の中で生きつづけると信じています。

今を生きてる人たちとどう関わっていくか

一番の関わりとしては家族、その存在は文字通り私の唯一の存在する意味そのものです。
以前の記事で父親の育児のことについて述べましたが、それがいわば私の存在意義です。
多様なテーマを抱えたまま生きている自分が、今を生きる人にどう向き合っていくのか?
苦悩に対しての黙秘は美徳とされていますが、まず私はその美徳を捨てることにしました。
生きてる以上は必ず誰かしらに迷惑をかけているのは重々承知で、ならば迷惑ついでに自分の苦悩について明かすことに舵をきりました。それが今を生きている証となるからです。

当然ですが…どんなに問いかけても故人はもう答えてはくれません。だけど、自分の記憶の中で生きています。人は二度の死を迎えるといいます。ひとつは生命の終わり、もうひとつは記憶から消えることです…ちなみに、その描写がとてもわかりやすい作品があります。それはディズニーの【リメンバー・ミー】です。メキシコが舞台で死者の日というお祭りがあるのですが、皆の記憶から消えないように先祖のことを賑やかに語り華やかに悼むという伝統なのです。故人には記憶として生きていてもらいたいという明確さにとても共感しましたし、死者を封じるのではなく生者と死者にも絆があるという表現はとても救いになりました。素敵な作品ですのでまだ観たことがない方がいましたら、興味があればご覧になってくださいね。

私事ではありますが最後にお伝えしたいことがあります

今を生きる人たちとの関わりあいの結論としては、障害や境遇に関して黙秘はしません。
ただ、その場に留めて口頭で説明して相手の時間を奪いたくもありません。ですので、
いまこうして記事という形で発信させていただいてる機会を活かして残していきます。

私は実際に関わっている身近な人に自分の記事に絞ったURLをQRコードに変換して教えています。なぜそこまでするかというと、私はこれまで公人など関係者に事情を口頭で説明してきました。いろんな方々と時間をかけて…しかし、そのことが心の負担になってきていると気づいたからです。だからといって体験を省略したり、なかったことにすることはできません。辛い経験だとしてもアウトプットすることを諦めたら、人間性やアイデンティティーを放棄することになるからです。それがすなわち生き甲斐です。自分が生きることを諦めなければ故人との記憶も生きています。

その原理は自分だけではなく、なにかを背負って生きている人すべてに当てはまることではないかと想っています。
タイトルにしている【大切な人がいなくなってしまった世界を生きる】とは、死んだあとも大切な人のままだということ。そして今を共に生きている家族や友人も大切な人たちです。

なにより、私が自分を大切に思えるようになるまでどうかそっと見守っていてください。これから身近で関わっていく人そしてHIFUMIYO TIMESライターとしての意味を込めて。記事を通して身近でなにかの気づきなど関心をもっていただけたら幸いです。長くなりましたが最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。

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