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2024/4/10:フリーペーパーvol.97発刊!

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」 第五回(高校 前編)

みんなが知っているのとはちょっと違う「女性の発達障害」

私は50歳で、発達障害の診断をうけました。ADHD(注意欠陥/多動性障害)、そしてASD(自閉症スペクトラム障害)の傾向も多少みられるという診断で、すぐにADHDの治療薬を使い始めました。小学5年生で発達障害の専門医受診を検討されたこともありましたが受診にいたらず、成人後は一般の会社で働いていました。しかし30代半ばからウツや摂食障害などの不調が続き、長いこと良くならないため40代で福祉を受ける側になりました。

連載が五回目となる今回からは、私の高校生の頃のことを2回に分けて書きます。連載が進むにつれて自分史の要素も強くなっていますが、様々なエピソードから女性特有の発達障害の特性があらわれていると思います。私には家族関係でのPTSDもあり、もちろん全てが発達障害から来る特性とは言えません。しかし発達障害のある一人の女性がサポートを受けずに成長した場合、どのような問題と向き合って発達障害の二次障害といえる症状を発症することになるのかを知っていただけると思います。

そして今更なぜ発達障害の診断なんて必要なの?と思われる年齢だと思いますが、私自身は診断を受けたことでとても楽になりました。いままでのたくさんの困ってきたことの理由と改善方法が、少しずつわかってきたからです。そしてADHDの治療薬も合っているようで、行動に落ち着きがでてきて生きやすくなったと感じています。

発達障害は幼少期にわかるケースが多いのですが、特に女性は現在の診断基準では違った見え方がすることもあり、幼少期に気が付いてもらえない場合があるようです。しかしそのまま成長してしまうと、周りの人と同じようには出来ないことが多くあり、家族や友人との人間関係がうまく築けず、自分を責め続けて二次障害と言われるウツなどの心の病を発症する原因になってしまいます。私が発達障害の検査を受けたのは、この二次障害である可能性を考えたからです。

発達障害は「害」という言葉のネガティブなイメージを避けるために、「発達障がい」または「神経発達症」などへ呼び方が変化していますが、ここでは現在一般的に知られている「発達障害」という言葉を使います。

これまでの記事はコチラから

診断までに50年かかった「大人の女性の発達障害」
https://tinyurl.com/2g8cqtf4

自分の好きなことを形にしようとした高校時代

私が公立中学から進んだ高校は私立の中高一貫の女子校で、外部から入るのは学年9クラスに対して30名ほどでした。自分の意志で選んだ高校ではなく、両親の見栄のために受験して偶然受かってしまったお嬢様学校と言われる偏差値の高い学校でした。歴史のある古風な学校で、校則も髪は肩についたら結ぶ(黒いゴムのみ・ポニーテールは禁止)、もともと髪の茶色い人は入学時に申請する、アルバイト禁止、寄り道禁止(やむえない事情で塾などに寄る場合は事前に申請する)、爪の長さの検査やスカート丈の抜き打ち検査あり、校則や手帳に書かれているルールで禁止されていることは必ず守らなくてはなりませんでした。決まり事を守るのが苦手で、人と違うことをしたい私にとってはとても窮屈な学校でした。

クラスには中学からいる人ばかりですから、自然と外部から入った人だけでグループになっていました。私は入学式で隣の席に座っていた公立出身の子と初めて会話をし、その子の紹介で外部出身の他の子たちとも会話をするようになりました。自分から他人へ話しかけたり友達を作ろうとすることは、幼稚園の頃に仲間外れにされて以来ほとんどできませんでした。

その一方で私が洋楽好きなことに興味を持ち、積極的に話しかけてくれる内部の子も居ました。話してみると、別け隔てなく接してくれる優しい子達でした。外部のグループからは「内部と仲良いよね」と嫌味を言われることもありましたが、自分から積極的に友達を作ろうとした訳ではなかったのでさほど気になりませんでした。

とりあえず興味がある部活動を始めてみた

高校では音楽の部活に入りたかったのですが、音楽関連は琴部、マンドリン部、クラシックギター部のみでした。どれもあまり興味がないこと、そして中学で母に禁止されて音楽の部活動をしていなかった事に引け目も感じて入れませんでした。芸術の選択授業も音楽は選びませんでした。

代わりにバレエを習った経験もあったので、興味がもてたダンス部に入りました。踊りと音楽は仲間だと考えていて、バレエ以外のダンスも勉強したいと感じて選びました。一番やりたかったのはロックバンドでしたが、軽音楽部はありませんでした。せっかく入った高校で、多少は学校に馴染みたいという中途半端な気持ちのあらわれと、部活に入る人が多いからとりあえず何かを選ばなければいけないという考えでした。

ダンス部の出身者には、劇団四季のトップで活躍する先輩がいました。そのおかげで劇団四季は無料で観れるし、元四季の先生が週に一度教えに来る好条件でした。入部前に見学をした時は、先生の指導で本格的な練習をしていましたが、先生が来ない日はストレッチで終わるような内容でした。さらに四季の先生に褒められたり仲良く話していると、「生意気」と先輩に言われて居づらくて全く楽しくありませんでした。

妥協で入ったダンス部はすぐに退部

ダンスは部活に必要な練習着も高価で、母に必要な費用を頼むとお金がないと嫌味をいわれるし、続ける意味を見いだせず半年で辞めてしまいました。本人はしっかり比較検討して考えたつもりでも、妥協したり周りに合わせて選んだことを私は長く続けられないようです。

極端な判断をしてグレーゾーンを作れない傾向は、多くの発達障害の人が気付かずに自分を追い込んでしまう原因になっていると思います。そして私も、同調圧力の中で馴染むように「周りのみんなと同じようにしてみよう」という気持ちでやってみた事になかなか馴染めず、結果的には負担になってしまうようです。
部活を選ぶときも、自分なりに分析してよく検討して決めましたが、熱意が足らず、一番やりたいことを諦められなかったのだと思います。

一番やりたかったバンドは続けられた

高校に入ってすぐ、入学式で隣の席に座っていた子を説得して一緒にバンドを組むメンバーを探していました。ダンス部を辞める頃には各パートが揃い、バンドの練習に夢中になりました。幼少期から米軍のラジオ放送でかかる音楽を聴いていたおかげで、今でもジャンルを気にせずジャズもカントリーもブルースもフォークもパンクもメタルもクラシックもラテンもポップスも楽しめるのは、ラジオでランダムに音楽を聴いて育ったからだと思います。ですから海外の曲なら何でも良いとメンバーに伝えて選曲し合い、演る人がいない楽器は自分がやり、バンドさえ出来れば良いという気持ちが強かったです。途中、メンバーが演劇部の世界大会へ行くことになったり、留学したり、退学したりで、入れ替わりはあったものの、秋の文化祭のイベントに3年間出て、卒業後も他校の生徒とバンドを組んで活動するほど大切なものになりました。

自由になる時間とお金はすべて音楽に使う生活

高校生の頃には、平均すると月に一回のペースで海外アーティストのコンサートを観に行っていました。もちろん東京のど真ん中にある学校へ通う環境の良さと、当時はまだチケット代が安かったことが何よりも有り難い事でしたが、そのためにできることを最優先していました。お弁当を作ってもらう代わりにもらう、週千円のお昼ごはん代を食べずに貯め、お小遣いとアルバイトのお金の全てを音楽のために使いました。そもそも一週間6日分の昼食代を、千円で済ませろというのは無理な話しでしたから、お昼は全く食べないほうが気が楽でした。
コンビニも利用せず、お菓子も買わず、自販機も使わず、スタジオと楽器屋以外は友達と出かけもせず、とにかくお金と空いた時間は音楽にあてていました。

宿題が多いことで有名な学校だったので、それらを終えて楽器の練習を始めるのは深夜前でしたが、2年生で弾くことになったギターは毎日練習を続けました。日々考え込んでしまう嫌なことから離れるためには、好きなことへ集中できる時間がとても大切でした。眠るのは、4時間あればマシという生活でした。しかし今思えば、この生活も極端で自分を追い込む行動の表れだったと思います。

凸(得意)が自分にもハッキリと見えてきた頃

高校には、外国人の先生や留学生もいました。家族に英語を話す人が居たこともあり、高校生の頃には抵抗なく簡単な英会話が出来るようになっていました。おそらく英語を聞き取りやすいのは、幼少期から米軍のラジオを聴いて育ったこと、高校受験のためにとても厳しい先生から英語を個人で習い、中学英語の基礎を何度も書いて音読してしっかり勉強したからだと思います。さらに絶対音感があったこと、後のWAIS-Ⅳの結果でわかった「言語能力」の高さも要因かもしれません。その代わりに処理能力が低いので、話すのはゆっくりです。
幼少期から家庭環境で外国人に慣れていたので、「英語=外国人=何を話したら良いのかわからない」という先入観がありませんでした。ADHDの特性から好奇心のままに行動し、物事に壁を作ったり線引きをせず、「外国人も同じ人間だ」というフラットな考え方です。同じようにLGBTQと言われるような友人が居ることも、特に自分と違うことがあるとは思わないからだと思います。自分のセクシャリティ、性別のとらえ方もあいまいな感じです。私以外の発達障害の人にも、性別・年齢・国籍などにこだわらず、自由で行動的な人が多いようです。私自身も生意気だと思われることが多いようなので、そういった面でも日本の縦社会よりも個性に寛容な生活が合う人も多いだろうと感じます。実際に私もその後、海外経験者や外資出身者の中で働くことで自分の得意を発揮して、自分の存在に少しずつ自信をつけることが出来ました。自由な環境で積極的に自分を活かしたい人には、外資の風土で働くことが合うと思います。反対に、決まったことをコツコツとこなす事が好きな人には評価へ結びつけることが厳しい環境だと思います。

発達障害のある人は「好きなこと・苦手なことをハッキリ感じ取る」傾向が強いので、若い段階で自分の人生を豊かにしてくれる趣味や特技を見つけやすく、生涯の楽しみへ繋げることができる可能性が高いと思っています。思い込みでもレベルが高くなくても良いので、大好きだという気持ちで自信を持つことにつながれば、他のことで上手く行かないことが多くても自分を助けてくれる居場所となります。

ちなみに私の英語力は中学生の基礎のレベルで、臆せずに外国人と話すことで覚えた口語の知識がオマケについた程度です。それでもコミュニケーションや簡単な仕事には充分で、一度も外国人から失礼だ!と怒られたことはありません。文章でもわかる通り、私の日本語も独特の話し方や言葉のチョイスで大して上手くありませんから、言語は完璧ではなくても心を込めて話せば伝わると考えています。カタコトの日本語で一生懸命に話しかけてくれる外国人に接すると、私はとても嬉しくなります。

さらに音楽の話題も世界共通のコミュニケーションツールとなり、新しい人間関係をつくるきっかけになって常に自分を支えてくれる大切なものです。下手でも仕事にならなくても、大好きなことに集中すれば嫌なことばかりに執着せず、日々小さな達成感を重ねて幸福と心の安定を得やすいと感じています。苦手なことは無理して深堀りせず、自分の好きなことを楽しもうという考えに気がついたのが、私の高校時代の良い点だったと思います。もし「好き」という感覚がハッキリしなくても、生理的に「嫌」という感覚は自分で感じ取りやすいので、嫌なことを省きながら自分に向いていることを探していくのも良いと思います。

私の場合は、家族が言っていた「私に向いていること」は全く違いました。そして、自分が好きだと思って始めても合わないことも多かったし、嫌ではないけれど合わないと思ったことが、タイミングが変わるとぴったりと合うこともありました。自分で思う「自分らしさ」もあてにはならないので、発達障害のある人はとくに、時間をかけて様々なことへ挑戦していく好奇心と探究心を持ち続ける人であることも大切だと思います。

合わない校風と学力の差に苦労した高校時代

高校生になり音楽を楽しむ余裕ができた一方で、学校の勉強は場当たり的な高校受験のために身につけただけの学力ではとても追いつけない違いを思い知ることになりました。両親の見栄のために無理をして偏差値の高い高校へ通い始めたために、私自身も校風に適応したい気持ちや勉強にやる気が足りませんでした。さらに高校でそこそこの成績を取れば、受験勉強をしなくても大学へ進むことが出来るということで、さらに勉強を頑張る必要性を感じていませんでした。

体調の悪化で気力のない状態

もう一つ私にやる気がない原因は、慢性的な身体の痛みと生きているだけで精一杯な感覚になる慢性的な疲れでした。東京の満員電車のピーク時での通学の大変さと、幼少期から続く辛い家族関係の影響で、睡眠不足や栄養の不足もありました。朝は中学生までは母がお弁当を作って起きてくれていたので、遅刻ギリギリでも毎日通えました。しかし高校への登校時は、家族が起きていないことも多く遅刻ばかりしていました。
満員電車の2時間の通学で、学校に着く頃にはクタクタになっていました。途中、父の借金返済のために横浜の自宅を売却して通学時間が一時間くらいに減る都内へ転居しましたが、それでも東京の朝の山手線での移動は壮絶なもので、重い革鞄に辞書や教科書を詰め込んで立ったまま、常に身体の痛みを我慢して通って電車の中でしゃがみ込んでしまうこともありました。

当時は貧血でもないし痛みの原因もわからなかったのですが、後に私はPTSD、起立性調節障害、重度身体表現性障害、線維筋痛症の診断を受けています。発達障害の人、特にADHDの人がPTSDを発症する確率は一般の人よりも高いということが研究でわかっています。ADHD、PTSDそれぞれの脳内神経伝達物質であるドーパミンやノルアドレナリンの作用の違いが共通点であるとも言われています。
ADHDと虐待の関連性も高いという研究結果もあるので、長期的に自分の存在を否定され続けることは本当に心身をズタズタにして病気につながってしまいます。それが人により、身体の痛み、うつ状態、周囲を拒絶するような表し方をするのだと思います。

特に発達障害の人は、嫌なことが起きた時の詳細まで記憶に残りやすいです。発達障害の人への特別な配慮が必要というよりも、誰に対しても傷をつけないように思いやりのある言葉で接することの大切さを感じています。特に私は発達障害の診断でわかった衝動性があるので、最近は衝動的な言葉で人を傷つけないように、一回言葉を飲み込んで考えてから会話をするように意識するようになってきました。

また私は不調を誰かへ言うときは、かなり悪くなってからという傾向があります。我慢をしやすいというか、どこからが本当に悪い状態なのか判断が上手くできません。他の人の基準がわからないし、痛いとか辛いという感覚は常にあるから表現できないのです。精神的に落ち込んでいるときの頓服薬の使用も、生理痛や生理前の落ち込みがひどいのも、我慢できなくなってから薬を飲むことを思い出すので、もっと早く対処したら楽に乗り越えられるのかもしれません。私自身、生理という言葉を人前で言うのがとても恥ずかしくて、高校の保健室で痛み止めをもらうときも「頭が痛い」と言ってもらっていました。

特に女性で発達障害がある人は、若い内から自分の生理の影響がどの程度かを知り、必要な対処を習慣化しておくと楽になると思います。そのためには、自分の痛みや心の変化、出血の処理でわからないことも誰かに相談して、詳しく具体的に教えてもらう機会が必要だと感じます。「こうなったらこうする」と一つ一つ教えてもらえないと、一人で悩んでしまう傾向があります。母親、婦人科の医師、学校の保健室の先生や福祉関係の人など、何でも相談できる人を作り、少し踏み込んで日常のことをサポートしてもらうと良いと思います。

卒業するだけで充分だろうと思っていた高校

高校生の頃にはすでに常に疲れていたので、授業はほとんど寝て過ごし、嫌いな先生がいるとテストを白紙で出したり、試験の日に学校へ行かずに外で時間をつぶしたりすることもありました。とても格好が悪いのだけど、卒業できれば付属の大学へ進めることがほぼ確実で、その決まった道に乗りたくないという無駄な反抗でもありました。テストの点数が悪ければ追試があり、親が呼び出され、進級するためにある程度の成績をとらなければ本当に落第するのだけど、そうなってくれて高校生活から逃げ出したい気持ちと、宿題はきちんとやる元来の生真面目で不器用な性格が戦っていたのだと思います。市販の痛み止めや鼻炎薬を多めに飲んで、少し現実逃避するようなこともしていました。

高校の成績

成績は幼少期から変わらず、好きな教科は100点を取ったりするのに嫌いな教科はクラスで最低点を取っていました。高校で成績が良かった教科は、倫理(哲学に興味があって教科書を読むのが楽しかった)、英語(基礎が出来ているから勉強しなくても中の上の成績は取れた)、小論文(自分の考えを書くことに抵抗がなかった)、美術(自由に作るから評価された)、物理(機械が好きだから興味があった)でした。特に苦手な教科は、古文(漢字の多い教科書が読めず必要性もわからなかった)、日本史(漢字がたくさんで教科書が読み進められなかったが世界史は読めた)、数学(先生が嫌いだし何に役立つ記号なのかさっぱりわからない)、体育(誰よりも真面目にやっているつもりだけど評価されたことがない)でした。

試験勉強をしようとしても、高校は教科書の試験範囲が多くて読みきれませんでした。集中力がないのと、文章を読むのが苦手だったことも原因ですが、高校生になってからは塾も家庭教師もつけてもらえず、ポイントをおさえた勉強の方法がわかりませんでした。日頃から予習復習をしていないので、試験前日だけで読み切れる量ではない教科書を目の前に、夜明けまで悩んで試験を受けていました。

追試のために休みの日に学校へ行き、ベテランの先生から個人で教えてもらうと、その間のテストだけは100点を取り続けていました。私も当時はわかっていませんでしたが、自分が解るように勉強のやり方から教えてくれたら出来る、という簡単な理由だったのだと思います。小学生の頃も、算数の問題の意図がわからず、りんごを三人で分けるにはどうしたらいいか?と聞かれたら「半分に割って食べたい人が大きいのを食べて、残りの半分を二人で分ければいいじゃん」と言い出す子供でした。質問の意図から教えてもらえないとわかりませんでした。

以前、私が「勉強のやり方」について書いたコラムがあります。発達障害の診断を受ける前に書いたものですが、どのように勉強をしたら良いのかわからなかった私が、自分の意志で資格試験まで受けるようになった経緯がわかります。発達障害でも自分に合う勉強方法を身につけることができれば、勉強嫌いが克服出来るかも知れません。

なぜ勉強をするのか?子供の頃に教えてもらいたかった理由

高校生活前半のまとめ

ここまで高校生活を振り返ってみると、もっと信頼できる大人がそばに居てくれて相談できていたら、もう少し自分の体調や能力に合った生活ができていたのかも知れないと感じます。しかし、自分で色々と考えて失敗をして落ち込んで、それでも前向きになるための力をつける期間だったのかも知れません。

この記事を書く現在、ADHDの治療薬「ストラテラ(アトモキセチン)」の使用を継続しています。その他にも処方薬として安定剤や睡眠薬、抗アレルギー薬や痛み止め、めまい止めの薬なども飲んでいるのでハッキリと判りませんが、ストラテラによる副反応として最初に感じた吐き気は無くなりました。

使用を続けていると、最初は落ち着いたことを喜び、しばらくすると出来ないことが多いことに戸惑って混乱し、その後は出来ないことは無理をしてやらないように、自分の得手不得手を観察するようになりました。コミュニケーションの取り方にも変化が現れたように感じています。発達障害の診断を受けた人と一般(定形)といわれる人との違いもすごく曖昧で、もしかしたらみんなグレーゾーンなのではないかと考えることがあります。その方が、人を理解しやすいと感じています。みんな、得手不得手があるからです。

ADHDの治療薬を使用する前に「女性の発達障害」に関する本で読んだ中には、副反応に耐えられなかったり、「自分が変わってしまった」とか「自分らしくない」と感じてやめてしまう人もいると書いてあったので心配していました。ネット上に出る情報は、悪い内容が目立ちがちです。お薬の合う合わないは人それぞれですから、すごく良いよ!とは言えませんが、私のように合うと感じる人も居ることを知っていただく一つの機会になると良いです。

そして現在強く感じているのは、私自身が具合の悪いことやどのような感情なのかを上手く表現できず、無理をしていることに気が付きにくいところ、周囲の人にも気がついてもらえないところが自分を苦しめることへ繋がっているという感覚です。疲れやすさは、過集中も原因の一つです。自分の感覚や感情には敏感だけど、それを無視して集中してしまうところも「無理をすること」へ繋がっているように思うのです。無理をすると、エンジンが切れたようにプツンと止まって全てから逃げ出したくなります。だから、もっと自分の感覚を大切に感じ取って、もっと自分の感情にわがままになっても良いと感じています。無理をした分、かえって来るものが辛いので、できるだけ感情の振り幅が少なく、真っ直ぐに近い状態を維持していきたいと思っています。

身近でサポートをする人は、本人が大丈夫だと言っても、休憩時間や一人で休む時間を習慣づける手助けをすると良いと思います。楽しいことの後でも、受けた刺激の反動があります。普段の生活とは違う予定の後には、必ず一人でゆっくりする期間を作ってリセットできるように、疲れが積み重ならないようにする工夫も必要です。

では次回からは診断を受けずに過ごした高校時代(後編)で進学のこと、さらに一般の会社で働く成人期でどのような特性や悩みがあったのか、私が発達障害の二次障害を発症するまでの経緯をお伝えしていきます。

男性と女性の発達障害の違い、大人になってから診断を受けることのメリット・デメリット、生活面での工夫も盛り込んでいく予定です。

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