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2024/11/10:フリーペーパーvol.104発刊!

世の中には色々な言葉がある!不安な時・悲しい時、気持ちが楽になった言葉・私的10選

ざっくり

印象的な言葉はどこにある?様々な角度から楽になれる言葉をピックアップ

近年はSNSの普及により、言葉によるコミュニケーションや意見交換がより日常に深く組み込まれていますが、本当にすんなり至言と思える言葉にはなかなか出会いづらくなっているような気がします。言葉の総数があまりに多くなり過ぎたせいか、自分にぴったり来る言葉を見つけるのが困難になった印象です。

自分は生活の中で理由も判然としないような不安な時や、妙に悲しく落ち込んでしまう時をよく経験します。最近はそういう時、読書をすると不思議に気持ちが落ち着いてくることが分かり始めました。自分に合った本を探すのは大変難しいですが、無理なく読める本に出会えた時の喜びは何より強いです。やはり言葉が自分にとっての薬箱のように機能しているのだろう、と思います。

そこでふと、自分がこれまで不安な時・悲しい時に気持ちが楽になった言葉がいくつかあることを思い出しました。今回の記事ではその言葉を10個ピックアップしてまとめ、皆様と共有したいと思います。気持ちが楽になる言葉、という角度から真正面に見ると少々捻くれた(ように一見思える)言葉もあるかと思いますが、もしかしたらそういった言葉でこそ励みになる方もいらっしゃるのではないだろうか?とも思いますので、様々な角度を大事にし、私を楽にしてくれた言葉を取り上げていきたいと思います。

わたしは誰と競い合っているわけでもないし、不朽の名声に思いを巡らすようなこともまったくない。そんなものはくそくらえだ。生きている間に何をするかが問題なのだ。

チャールズ・ブコウスキー

チャールズ・ブコウスキーはアメリカを拠点として創作活動を続けた作家。この言葉は彼が亡くなる直前まで綴っていた日記を記録したエッセイ集「死をポケットに入れて」の中に書かれている言葉です。
1991年11月22日の日記に書かれたこの言葉。この日の日記の内容はブコウスキーが文章を書くコンピューターが壊れ、それが直ったという話。コンピューターを使うことによってブコウスキーはよりたくさんの文章を書けるようになり、今年は最も生産的な一年となったと言います。そしてその日の日記を締め括ったのがこの言葉となります。

この時のブコウスキーは確実に老人となってきており、死が目前に迫っていることに対する思いを何度も日記に書いています。そして、今挙げた言葉にはブコウスキーの「人間の死」に対する解釈が集約されているように私は感じます。
「生きている間に何をするかが問題なのだ」という一言。死を美化することなく、死に対する恐怖や感傷をある種どうだっていいと突き放した目線で、生にしがみついてやろうというブコウスキーの意志をそこに見ることが出来ます。

ブコウスキーは誰かを励ますためにこの日記を書いていた訳ではないと思われます。むしろ、誰かの励みになるような文章を書こうなどという考えはブコウスキーが最も嫌うことでしょう。そういう作家なのです。「死をポケットに入れて」というこの日記集自体、ある種意地悪な、捻くれた言葉が集まった本です。しかしそこに書かれたこの言葉に、幾度となく勇気付けられているのが私の事実です。
ブコウスキーが自意識の中で屈折し続けた結果得たのは「生きている間に何をするかが問題なのだ」という結論でした。そこにある説得力。それを自分自身の中に当てはめてみると、まさに然り!死に対する興味など隅に置いて、とにかく生きている時間の中で何かやってみたい、と無理なく思えるのです。

そして、捻くれるにも中途半端ではいけない、ということも感じてしまいます。世の中を信じ切れないなら、いっそ徹底して臍を曲げ抜くべきだ。臍曲がりを思い切り極めた先に何か光源が待っている、とブコウスキーは示しているかのように思えます。様々なことを思う、写鏡のような言葉です。

生きることは苦しいに決まっているのですから、もしわれわれが「人生とは何か?」を真剣に問うなら、自分の苦しかった体験を思い出し、それを牛のように何度も反芻して「味わう」ほかない。厭なことは細大漏らさず憶えておいて、それをありとあらゆる角度から点検、吟味する。すると、その後の人生において降りかかる数々の苦しみにも比較的容易に耐えられるというわけです。

中島義道

日本の哲学者・作家である中島義道氏の「私の嫌いな10の人びと」という本があります。勉強・部活・友人関係。様々な面において失敗体験ばかりを積み重ね、それを成功体験へと変えていく方法もうまく見出せなかった中高時代、私の愛読書となったのはこの本でした。
この本が主張しているのは、世間の常識に対して自分なりの思考をしようとせず、曖昧に従うことで手軽に多数派となり、少数派を無意識に隅へ追いやろうとする日本人の意識に対する厳しい批判・疑問の提示です。

「笑顔の絶えない人」がなぜ好かれるのか。「物事をはっきり言わない人」がなぜ奥ゆかしいとされるのか。そこには個人の感情を押さえつけて皆を笑顔にさせようとする全体主義が漂っている。物事をはっきり言わないのは単なる責任逃れで、きちんと言葉を選び取れないことを表明しているような物である……というように、日本人が知らず知らずに美徳としてきた人間像を真っ向から否定し、このようにすることで世の中はより良くなるのではないか、と提示する。画期的な本であると私は思いました。学校にこの本を持っていって、暇さえあればひたすら読んでいたので、装丁はもうボロボロになっており、それを今でも折に触れて読み返します。
そして最近この本を再読していて、私が気になったのが上記に挙げた言葉です。

日常で起きた嫌なことに対して、なるべく早く忘れよう、念入りに蓋をしよう、そして前向きに物事を捉えて生きよう!ともがくのではなく、嫌なことがあったのならそれをきちんと覚えておく。そしてその体験をあらゆる角度から点検し、この体験はなぜ起きたのか、この体験に関わっていた人たちや事象にはそれぞれどういう意図があったか、など色々なパターンの思考を行う。そうすることで先々の不幸にも上手に対応できる。という意味であると私は解釈します。
ここで提示されているのは、人間は常に想像力を試されている生き物だ、ということでしょう。何も考えず、嫌なことがあれば忘れていけばいい、という生き方では想像力は働かず、より同じことで苦しむ機会が増える。しかし自分の想像力をきちんと使って己の体験を噛み砕くことで出口が見えてくる。
嫌なことを覚えておいて何度も反芻する、というと一見陰湿に思えますが、実はこれは最大限に希望を提示する言葉。この言葉には改めて膝を打つ物がありましたし、やはりこれは大事な本である、と思ったのです。

鬱にならない人って、自分はいいものを書いてるつもりで、「寒くなったな、あいつ」って言われてるのを知らないまま一生生きてく。そんな人、いっぱいいるでしょ。二〜三年ちょっと鬱状態になって仕事も滞った人のほうがまだバネがつくと思う。

リリー・フランキー

吉田豪氏のサブカルチャー系インタビュー本「サブカル・スーパースター鬱伝」より抜粋です。様々なサブカルチャー界の発展を担ってきた著名人たちに鬱病の体験談・加齢と鬱の関係等について質問していくこの本で最初に取り上げられているのがリリー・フランキー氏のインタビューです。

今やリリー・フランキー氏といえば映画「万引き家族」に大役で出演し、NHK系列にもレギュラー出演番組を持つなど完全に表舞台のマルチタレントという風に見えてしまいますが、当人はかつて著作「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」のベストセラー化があった時期に最も辛い鬱を経験したとこのインタビューで発言されており、「いいことは重ならない」「もらった印税分は嫌なことあったと思う」と告白されてもいます。
元々ライターとして活動していた彼はその影響で文章を書く仕事が出来なくなり、味覚障害・睡眠障害にも陥ったといいます。その経験から、知名度が上がること・本が売れること=幸せではない。鬱になるくらいの感受性がある人でないと自分は友達になりたくない。とリリー氏は発言されるのです。
通常は自らの創作物が世に受け入れられることが表現者の幸せのように見えてしまうものですが、そこは単純ではないのです。私もこの話を読んで、やはりそんな甘い話はないのだ、と思いました。

そしてインタビュー中に上記の言葉が出てくる訳ですが、ここでリリー氏が言い表したかったことを推察すると、要するに鬱になるくらい落ち込むことをきちんと経験しなければ、自分が日々やっている仕事の能率向上・生活の充実は見込めない。中途半端に曖昧な仕事を繰り返すより、一回長いこと鬱になって時間を溶かしていくことで自分を深く見つめ直すと、より良い生活が出来るのではないか。ということでしょう。そうやって自分を見つめた時間は全くもって無駄ではなく、必要な時間なのだということをリリー氏はこの言葉で端的に伝えているように思います。

私も多分に漏れず、抑鬱状態で一日中横になっているのが精一杯な時期がありましたが、この「二〜三年ちょっと鬱状態になって仕事も滞った人のほうがまだバネがつく」という言葉を読んで、かなり気持ちが楽になりました。仕事を滞らせることでむしろ自分の力が伸びることもある、という視点はそれまでにないものだったのです。そして実際に時間をある程度溶かしたことで、逆に人生の調子が良くなりました。今ではあまり思い悩んで横になることもありませんし、生活が楽しいという気持ちになってきています。
やはり辛い時は勇気を持って、何が滞ってもいいからとにかく苦悩をきちんと経験する。その経験が後々自分の良薬となる。ということがきちんと分かった言葉として、ずっと覚えておきたい言葉です。

「何のそのどうで死ぬ身の一踊り」

藤澤清造

西村賢太氏の小説「どうで死ぬ身の一踊り」の表題にもなっている私小説作家・藤澤清(正確には「清」は旧字)氏の一句。極貧の生活を私小説に書き上げ、賞賛を受けながらも看取る者すら無く死去してしまった藤澤氏。「どうで」というのは「どうせ」と同義の言葉でしょう。
この句は、どうせ死ぬのだから開き直って無様だろうがなんだろうがさらけ出しながら生きてやろう!という意味であると私は解釈しております。しかし、それだけなら多くの人が言っている言葉に過ぎない気もしますが「どうで死ぬ身の一踊り」という言い回しに特別な、そして豊かなニュアンスを感じます。

生きること=一踊り、つまり思い切り踊ってみせることが生きることに直結するのだということ。それは言葉通り実際にダンスする、という意味での「踊り」ではなく、日々体を使い、言葉を使い、食事・睡眠・勤労といった事柄を繰り返すこと自体が「踊り」なのでしょう。そしてその「踊り」はある種吹っ切れた、勢いある物でなければならない。そうでなければいずれ待ち構える「死」の恐怖から逃れることができず、「死」の濃さに食い倒されてしまう。暗闇に食い倒されたくなければ「何のその」「どうで」という精神で「一踊り」を繰り出すしかない。この世は結局長く生きた者の勝ちである。長く生きられるのならば、生きる態度が他人から見て捨て身だろうと開き直りだろうと一切構わないのである!と、この句は表現しているように思います。
そしてこの句はリズムが良い。「どうで死ぬ身の一踊り」という文字列。口をついて出てきそうなリズムを持っています。人間が言葉を語る時、頭で捉えるものとしての側面だけがクローズアップされがちですが、実際のところ言葉はリズム感の表現でもあります。頭だけでなく体でも捉えたくなる言葉が本当に良い言葉なのだと教えてくれるような一句です。

私は不安の波が押し寄せてきた瞬間に、自然とこの句を思い出してきます。反芻すると、かなり気持ちが楽になります。この人生は真剣味や苦々しさを気取るものではなく、あくまでも「死」から逃れ逃れて生きることを目的とした「踊り」なのだと捉えてみれば、画期的な目線で自分の生活を見据えることが出来る気がしてきます。
ちなみに、この一句と藤澤氏の生涯を題材とした前述の西村氏が手掛けた小説ですが、内容は藤澤氏の死後、彼の文学を熱烈に支持する男の行方を追った私小説。一方で主人公が滅茶苦茶に暴力を振るい続けるとんでもない話でもありますので、興味がある方は覚悟をお持ちの上でお読み願います。

「幸福になるのが当たり前、みんな幸福なのに自分はそうじゃない」と、他人と自分を比べながら生きていたらしんどいじゃないですか。それなら「人は幸福にならなければならないわけではない」と考えた方が楽だろうし、幸福になるための努力に失敗して不幸になってしまうくらいなら、普通のままでもいいじゃないかと。

町田康

文筆家、ミュージシャンなど様々な顔を持つ町田康氏のネットインタビューより。30年間続けていた飲酒にまつわる一冊「しらふで生きる 大酒飲みの決断」が出版された際のインタビューにこの言葉が載っていました。
この言葉は私にとって非常に眼から鱗なものでした。「人は幸福にならなければならないわけではない」という考え方。こういった考えを発言する人はなかなかいませんが、実際これは正確な考え方だと思います。

人は幸福になるために生きていくものだと大抵は思われがちです。良い学校に行き、勉学に励み、仕事に従事し、家庭を築き営んでいくこと、その全てが最終的には「幸福」に繋がっていくものだと人間社会においては漫然と考えられています。
しかし幸福を目指すことは、幸福であること・幸福を求め続けることに囚われ、偏執狂的になるような状態と表裏一体なのです。幸福を目指すことで逆に精神を病んでしまった方も大勢いらっしゃると思いますし、そもそもどういう状態が個人にとっての幸福なのか?ということは一般的には曖昧にされていることでもあります。幸福とは不確定なものなのです。
ですからそこに執拗にこだわるのは町田氏が仰るように「しんどい」。それよりは幸福にも不幸にも拘らず、ニュートラルな状態を保ち続けることが大事なのではないか、という意味にこの言葉は捉えられます。例えば不幸を分け合うようにして他人に傷付けられ、自分も他人を傷付けながら生きるような負のスパイラルを背負った人生は言うまでもなく恐怖ですが、「幸福であれ」「もっと幸せになれる」という言葉もまた呪いに転じてしまうことがある、ということにも気付くことができます。

同じインタビューで町田氏は「幸福でないことすなわち不幸ではない」とも語っておられます。幸福でない人は不幸だ、という考えは割と世間的にはありがちなものですが、幸福でも不幸でもない瞬間というものの方が人生には多く、またそのニュートラルな瞬間が一番大事なものになることもある訳です。幸福でない=不幸、ではない。これは重要なことです。下手に幸福を狙わない方が生活が充実する可能性すらあります。
そういったことに気付かせてくれた町田氏のこの言葉は、かくして私の礎となりました。「幸せになろう」という言葉は何かうざったらしく、曖昧に過ぎるように思います。「幸福」を思い求めるしんどさからは常に距離を置いて、自分にとって丁度いい、と思える瞬間を探していたいものだ、と感じます。

https://www.gentosha.jp/article/14252/

自分のフォーム。食べること。これはどんな時も崩さない気はする。それが、案外一番大事なことだと、ようやく最近、わかってきた。

豊田道倫

様々な音楽ジャンルを越境しながら孤高の歌を書き続けるミュージシャン、豊田道倫氏。私はこの方の音楽を愛聴しているのですが、彼は文章力も桁外れに高いのです。
この言葉は彼のブログである「新宿目黒ラナウェイ」からの抜粋で、ネットにおけるツイートひとつ取っても含蓄のある言葉を放ち続けている豊田氏の言葉の中でも最も印象に残っています。
2016年7月28日に書かれたブログで彼は「自分にとってのフォームって何だろうか?」と前置きをして、喘息で死にかかった時救急で運ばれたが、点滴を一時間半受けて、帰宅する前、生姜焼き定食かなんかを食べた、という体験談からこの言葉に繋げています。

豊田氏は公に、自炊の話や外食の話をよく書かれています。歌詞・エッセイ集の「たった一行だけの詩を、あのひとにほめられたい」でも食にまつわるエッセイを何ページかに渡って書いていますし、自身の歌の中でも「メロンパン」「うどん」「チーズバーガー」「回転寿司」など、頻繁に食べ物が登場することから、食べ物についてよく考えている方であることが分かります。

そんな彼が「自分のフォームは食べること」と書いている。それが案外一番大事なことだ、と。
この一文を読んで、私も確かにありがたくも食事は欠かさず摂って来られたし、家族で栄養のある食事を摂ってきたから(私は実家暮らしです)大病も入院もせずにここまで生きられているのだろうな、と納得したのです。そしてやはり食べることが一番大事で、何を食べるか、どう食べるか、ということへの思い巡らせ方が重要だ、と痛感したのでした。
毎食毎食、本気で楽しめるか。適当に食事を済ませてはいないか。人生についてどれだけ能書きや理屈を広げたところで、結局大事なのは健康な身体作りなのです。身体が安定しなければどうしたって精神も安定しない。そして身体を作るのは毎日の食事に他ならず、さらにそれを楽しめるかどうか……と書くと何だか堅苦しくなってしまいますが、実際そうなのです。この言葉もまた、私が生きる上での基礎的な感覚となっています。

コフートの基本的な考え方としては、どんなにがんばったところで、人間ってひとりじゃ生きていけない。だから、空虚だ、不安だっていうんだったら、人に頼ろうということなんですよね。
ー未熟な依存から成熟した依存関係になればいいんだっていう考え方なんですね。人に頼っていいんだと。
ー要するに、四六時中依存してなくても、必要なときだけ依存する関係。もうひとつは、一方的に依存するんじゃなしに、今度はギブアンドテイクの関係ができる。相手が頼ってきたときはこっちがヨシヨシしてやる、みたいな人間関係ですね。

和田秀樹

精神科医・受験指導家の和田秀樹氏が本橋信宏氏の著書「悪人志願 アウトロー群像」でハインツ・コフートというアメリカの精神科医の考え方を解説している言葉です。人に頼ることを覚え、実践すること。そうして生まれる関係性の豊かさについて説かれています。

日本では「自己責任」「共依存」「自助」「共助」と、人間関係の維持に関する様々な言葉が(どちらかと言えば)マイナスな方向に一人歩きしている場合が多いですが、結局は孤立するより、依存しているということを客観視しながら他人に程良く依存できている状態の方が圧倒的に良いのではないか、という訳です。
「自助」、つまり自分の面倒を自分で見ていく努力も大切ですが、落ち込んだ時・迷う時にはやはり「共助」の精神が鍵になる。相手が頼ってきた時は存分に甘えて頂く心。その分、自らもきちんと相手を頼ろうとする心。人間が生きていく上で大切なことはその心であるというのがコフートの考え方なのでしょう。

この解説を読んだ時、自分の中のもやもやした心情がかなり整理されていき、「未熟な依存から成熟した依存関係になればいい」という言葉に目が覚めるような感覚がありました。「四六時中依存してなくても、必要なときだけ依存する関係」という言葉にも驚きがあります。依存するというと毎日ずっとお互いに関係し合わなければならない、という良からぬ厳密性のような強迫観念が付きまといがちですが、そうではなくて、「必要なときだけ」。これは非常に重要な点であると思います。

どこまで頼り合うか、どこまで互いに踏み込むかが曖昧にされた「未熟な依存」は最終的に自分も他人も傷付けてしまったり、迷宮に入り込むような不安定さがあるものですが、「成熟した依存関係」に移行できれば不安定さは消えていくのです。
独りで閉じこもっている方が楽だ、と言って他者との関係性をないがしろにしてはいけない。他者とコミュニケーションを取る練習は大事である。という今更な自戒も含め、心が楽になる解説でした。

危機的なときこそ、前向きに生きることを歌うしかないと思った。放射能の雨が降るなかでも、明るく真っ直ぐに歌うしかない。あのとき、「こんな事故を起こした犯人は誰だ」とか、そんなことを歌うのはイヤだった。「どんな状況でも生きている限り最高の一瞬はある」ってことが歌いたかった。

曽我部恵一

サニーデイ・サービスでの活動などで近年改めて再評価の熱が高まっている曽我部恵一氏が、北沢夏音氏との共著であるインタビュー集「青春狂走曲」にて語った言葉です。
この言葉は彼が曽我部恵一BANDとして発表した「曽我部恵一BAND」というアルバムについての解説で、このアルバムが発表された当時は東日本大震災の余波によりミュージシャンにとっても苦しい受難の時期であったことは記憶に新しいでしょう。

当時は世相を批判するような言葉も溢れていましたが、曽我部氏は原発事故の犯人探しに歌を費やすことは「イヤだった」と語ります。そして「どんな状況でも生きている限り最高の一瞬はある」と歌いたかった、と述べるのです。
ここから読み取れること。つまり、悲惨な人生を送っているように見える人でも、実際は美しい光景を見ているのかもしれない。そしてどれだけ自分が苦しい思いをしていても、人それぞれに「最高の一瞬」を見つけることは可能であるということでしょう。自分や他人の人生を一方的な感情をもって決めつけてはならないし、人間が生きていくということは限りなく可能性に満ち、とてつもなく果てしないことなのだということをこの言葉は教えてくれたのです。

この言葉を読んだ時、私はとにかく何もうまく行かず落ち込んでいた時期でした。
会社ではうまく働けず転々とし、自分の人生においてもなかなか目標が定まらず、周囲の全員が自分を傷付けることを前提に動いている敵対者に見えてしまう。そうやって無礼にも人を意識的に品定めし、時間を無駄にしていることに強い罪悪感と嫌悪感を感じていました。
そういった時期にこの言葉を読めたのは本当に優れた経験だったと思います。絶望を気取らず、しっかり希望するのが大人なのだと気付かされる思いでした。そして「悲惨に見えても、どこかに最高の一瞬はある」という言葉自体がまさに希望になりました。
私が曽我部氏の音楽を愛聴している人間であったのもありますが、何もかも拒絶していたあの頃、この言葉だけはきちんと受け入れられたことを覚えています。学びを与えてくれた、思い出深い言葉なのです。

裏切らなければ先へ進めなかっただけだろう?
怖がってばかりじゃ何が正しいのかも分からない

GREAT3「Caravan」より

その曽我部氏とも交流のある日本のバンド、GREAT3の楽曲「Caravan」の歌詞からの抜粋です。
気持ちが楽になる歌詞というのは私にとってなかなか無いのですが(音楽の歌詞というのも大抵は個人の思想に基づいたものが多く、自分の思いと合致するものを掘り当てるのは非常に大変なのです)、この歌詞は別でした。
音楽的には極めて美しいメロディーを持ったピアノ主体の曲で、喪失感・憂愁の強い雰囲気の中でこの歌詞が出てきた瞬間に、いつもハッと目が覚める思いになります。

このラインは、時には裏切りや仲違いなど、側から見て悪人に徹さなければ道が開けない時がある。という意味にも取れますし、自分自身に自分が課していた期待や希望を裏切らなければ人生の問題が解決しない時がある。という風にも読めます。そして「怖がってばかりじゃ何が正しいのかも分からない」というライン。ここに人が生きるということの全てが凝縮されているように私には思えます。

何が正しいかを見極めるためには、過ちを犯すことを不安がっている場合ではない。とにかく何でも試してみるべきだ。という意味として私はこの一行を解釈します。
毎日喜びや不安がランダムに降り注ぐ中で暮らしていると、何かに対して奥手にならざるを得ない、つい踏み込まなければならない瞬間に対象に向かって踏み込めない瞬間というのも多く、そんな時にこの「怖がってばかりじゃ何が正しいのかも分からない」という一行を思い出します。思い出すと気持ちが楽になりますし、怖がっていても仕方ないというある種の思い切りを与えてくれます。

今死ねば、物語は完了すると思いながら、はっと我に返り、自分の死をそんなふうに装飾することを考えるのはやめるの。私は自殺はしない。

宇多田ヒカル

やはり音楽好きとして音楽家の言葉が中心となってきたこの記事ですが、最後も音楽家の言葉で締めたいと思います。この方の名前は誰もが存じていることでしょう。宇多田ヒカル氏の「」という発言集から抜粋した言葉です。

私の敬愛するモーサム・トーンベンダーというバンドの歌に「子供は全部知ってる・生まれた時悟ってる・生を祝福するなと・人の死を美化するなと悟ってる」という歌詞がありますが、この言葉はそれを連想させる一節として私の中にあります。すなわち、自分の生・死、人間の生・死を幸福である、不幸である、あるいは救済になった。などと言って装飾・美化するものではない。ということです。

人の死は人の死でしかない。素晴らしいことでもないし、それが救いになってくれるわけでもない。人生という物語において死は厳然と「死」としてそこにあるだけのもので、それに何らかの意味や価値を加えること自体がおこがましく、無礼なことである。従って自殺という行為はあまりに愚かしき考え方である、ということ。宇多田氏のこの言葉を、私はそう解釈しています。

私にも人並みに希死念慮や死への興味関心が湧いてくる時がありますが、この言葉を思い出すと、自殺という行為の愚かさ、自らの死に何か救済・あるいは意味があるのではないかと考えてしまう愚かさを反省してしまいます。
一方で、「死」は軽いものでは勿論ありませんが、死ぬことはあくまで「死ぬ」ことであり、そこに思考を依存させることは別に利益のあることではない、とある種落ち着いて物事を考えられるようにしてくれる言葉でもあります。そういう意味で、これは私の気持ちが楽になった言葉なのです。
この言葉を知ったのはもう随分前なのですが、自殺者の増加が著しい世の中の風向き、個人的な精神疾患から来る不安。それらを浴びながら生きている以上、自殺について考えることは今後ますます多くなってくるのだろうと私は感じています。また、人生というものは年齢を重ねたり、あらゆる経験を積んだりして解決する問題ばかりでもないとも思います。同じ問題でずっと悩むこともあるでしょう。そんな悩める時間に思い出したい言葉です。

言葉で気持ちは楽になる。色々多面的に考える方向へシフトしたいものです

以上、私の気持ちが楽になった10の言葉を抜粋致しました。皆様のお気に召すような言葉はありましたでしょうか。今回は読書で得たものだけではなく、インターネットにある言葉や音楽の歌詞からも抜粋しました。様々な箇所から言葉を選ぶことで、充実した特集になればと思ったのです。

それにしても、言葉というものは人間が使える手段の中で最も不思議なものです。うまく使えば良い薬のように機能しますし、使い方を間違えれば大きな毒素になってしまう。今回抜粋した言葉の数々は、言葉を頼り甲斐のある良薬として使うことに成功した好例でしょう。
SNSが一般社会に深く組み込まれたこの社会において、言葉でのやり取りは極めて重要になっています。言葉をうまく使うには、言葉の使い方が上手な人の口回しや手捌きから学ぶのが一番の近道であると私は思います。私もまた他人の言葉を読んだり聞いたりして、自分の言葉の使い方を精査します。それは意識していないだけで、誰もが生活の中で普段実行できていることであるとも思います。

では、言葉の使い方が上手い人というのはどういった人なのかと考えてみます。今回抜粋した言葉を見てみますと、それは全て世にある常識や、社会的に善とされていること・悪とされていることを常に自分に置き換えて確かめ、自分の頭で多面的に考えた末に現れた言葉のような気がするのです。
今回の言葉を参考にして例を挙げるならば、「幸福になるのが当たり前」と考えるのではなく「普通に生きていても良いのではないか」と考えることや、「自己責任で全て乗り切る」と考えるのではなく「人に頼っても良いのではないか」と考えること。それは単なる無鉄砲な疑念とは違う、建設的な思考であると言えます。

建設的な思考を求めるのは労力が要りますが、慣れてくればそういった考え方自体がニュートラルになり、生活の仕方も良い方向へ変わってくるのではないかと思います。私も他人の言葉をよく読むことで、少しずつ思考停止・あるいは単なる疑いの振りかざしとも違う、きちんと身になるような思考の仕方が分かってきたような気がします(あくまで思い上がりかもしれませんが……)。
最初に申し上げたように、言葉の使い方というものの重要性、言葉が持つ効力を否応なしに意識せざるを得ない世界が形成されてきた今、良い言葉を探し当てるのは年々難しくなっているように思います。しかし、探せばどこかにぴったり来る言葉はある、ということも私には体験から言い切ることが出来ます。その望みを捨てないように、多面的に物事を考えられるようにシフトしていければと感じるこの頃です。

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