TBS「兼高かおる世界の旅」あなたにとって憧れの海外旅行はどこの国でしたか?
日本に週休2日制が普及しはじめるまだ数十年も昔、私たちにとって休日はとてつもなく貴重なものでした。
そんな昭和後期の日曜の朝、優雅なオープニング曲「80日間世界一周」(ビクター・ヤング・オーケストラ)に乗って、テレビ画面いっぱいに映し出されたパンアメリカン航空の飛行機が滑走路へと着陸するシーンから始まる「兼高かおる世界の旅」を、懐かしく思い出される人もいるでしょう。
1959年(昭和34年)の12月13日から1990年(平成2年)9月30日の間、日本にテレビが普及し始め、白黒からカラーに移り変わる時代を経由し平成2年まで放送された紀行番組です。
現在の旅行番組のように、カラフルなテロップやワイプを多用するといった演出は見られず、グルメや温泉といったコーナーで視聴者を無理に引っ張り飽きさせない、といった演出もありませんでした。
画面の向こうの異国について、むき出しの現地そのものを伝えることに番組はいつも真摯でした。
各地の民族の特徴が飾られることなく見られるという点で、日本人である自分は本能的に強烈な印象を受けていました。
同時に、いったいいつになれば自分はどこかしらの海外に行くことができるのだろうと、憧れと不安を感じていたことを覚えています。
この番組は、テレビの世界にまだたくさんの夢が詰まっていた時代の記録です。
「兼高かおる世界の旅」よく見ていました。
ご健在なのですね。— DOGISGOD! (@maribingo) 2018年8月29日
日本人の海外渡航
昭和30年代から40年代、日本は1ドル=360円という固定相場制のもとにありました。
その後1971年に1ドル308円となり、1973年に変動相場制へと移行しました。当時、海外旅行に必要な経費は今よりずっと高いものでした。例えば今なら、ハワイ旅行するにしても、5泊でおおよそ30万円程度から行けるでしょう。
しかし当時、ハワイに旅行するには当時の貨幣相場でも100万〜200万円の費用がかかったはずです。
現在のように通信販売も普及していなかったし、インターネットもありませんでした。お金の問題だけでなく、準備しなければならないモノ・道具を入手する手段も限られていました。
1ドル360円で海外旅行など庶民には夢のまた夢だった頃から世界のさまざまな情報をお茶の間に提供してきた「兼高かおる世界の旅」を、海外のとんでもない奥地にも日本人が普通に存在する今また視聴できるとは pic.twitter.com/Mk1spDfTrR
— 一課長 (@1kachou) 2016年9月24日
兼高かおる
国家元首であれ名も知らぬ部族の一住民であれ、臆することなく取材を敢行する行動力に、遠慮や謙虚とは異なった種類の凛とした美を感じたものでした。
上品な口調で幾多の冒険にも挑戦する彼女の姿は、当時多くの視聴者から尊敬の念を集めていました。
「わたくし、◯◯ですのよ」と、気品あふれる口調で話す兼高さんの番組映像は、今でもCS有料放送TBSチャンネルで見ることができます。
がっつり読んでしまった。母親が「世界の旅」が好きで見ていたけど自分はよくわからなかった当時。読むと、いや、すごいなあと / 89歳になる兼高かおるさん「わたくしの人生の旅は、まだまだ続きますのよ」 https://t.co/XSDXcevS46
— 山谷剛史:中国アジアIT専門雲南住み (@YamayaT) 2017年8月1日
1950年代でしょうか、兼高かおるさんの若い頃の写真です。「兼高かおる世界の旅」を日曜の思い出として覚えている人も多いでしょう。現在もご健在のようです。 pic.twitter.com/fGqrsWbrWx
— 戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) 2017年6月13日
まとめ、兼高かおる世界の旅
兼高かおる世界の旅という番組は、もう30年も前に終了していますが、魅力的な番組だったことが今でもひしひしと伝わってきます。
この時代の旅行番組に感じられる特徴は、演出を省き、出来る限り現地に存在するそのままの姿を伝えようとしているところです。それがもし、つまらないと感じられるものなら、つまらないと思ってもらうことでさえ重要なのだと思います。
民間外交官というスタンスを自らに課した兼高さんが実行した、派手な演出を加えず視聴者にそのままの異国を感じてもらうという姿勢は、現代のメディアが最も立ち返って目指していかなければならない手本を現在に示してくれているかのようです。