つまり、『昔はそれでも構わなかった』?
『仕方がなかった』?
この捉え方は『揚げ足取り』でしょうか。
『そういうふうに言ってもらえるだけで感謝して当然』
なのでしょうか。
確かに、『変わろうともしない』とは雲泥の差ですが。
「旧優生保護法」(だって当時はそれが未来の為だったじゃん?)
「義務的に、事務的に、男女平等」(だって好感度ほしいし。)
「そういう脳なら、特別な才能を持っているもの」(ないなら違うんじゃないの。)
「障害者は、いい子」(教えたことに背いたりしないよね。)
「不倫は犯罪じゃない」(夫婦間の問題だから外野黙れ。)
弱い立場の人間がしわ寄せを食うことで、『上手くまわっていた』のに、
差別や不遇を改善することで『ひずみが生じた』のでしょうか。
もしそうだとすれば、それは今も人間がとてもとても未熟な生き物だということです。
もちろん、『完璧な存在』なんてそれこそ存在しないでしょう。けれど、
たとえ「いわゆるちゃんとした組織」でも、
法律をつくることに関わることができたのはかつて男性だけだったし、
海外の重大な「とある賞」に関わる会員が白人ばかりだ(だから受賞者もそうなんじゃないかという疑惑のようですが)という報道も記憶に新しいことです。
『縮図』でなければ、見合った結果とならないのも必然です。
淘汰や排除は自然なことで、その心理は仕方がないものなのでしょうか。
たとえ排除でなくとも、
「かわいそう」「助けてあげる」「手を差し伸べてあげる」
口には出さなかったとしても、それは…。
「未来志向」とは言いますが、それは「過去や現在をないがしろにしていい」
ということではないはずです。
現在の問題を少しでも改善し、過去の間違いを認め償う、間違いが事実ならば。
そこから「未来」は始まると思うのです。