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「薩摩剣士隼人」外山雄大監督―鹿児島のヒーローを作った男-2

「薩摩剣士隼人」外山雄大監督、鹿児島のヒーローを作った男への取材記録(1)前編はこちら

インタビューを開始してから30分が経過し、外山監督はツチノコ探索の話を一旦やめました。

これまでの探検をチームで行ってきた外山さんは自ら隊長となり、隊員5名を率いて「ドラゴンサーチャー」を結成しました。イッシーやツチノコを中心に探検を進めてきましたが、これは一旦休止することにしたのです。

外山さんはそれから日雇い労働に従事するのですが、モデルにしたのは、かつての有名な登山家「植村直己(うえむらなおみ)」でした。

多くのスポンサーを持ち、冒険家として存分に世界を回ることもできたはずの植村直己は、それでもあえて日雇い労働に従事しました。せめて一部でも、活動資金を自分で汗水たらして稼ぐことに意味があると思っていたからとのことで、植村直己の哲学に傾倒した外山さんも日雇いという労働形態を当時選んだとのことでした。

諦めず好きなこと一生懸命

32歳のころ、自ら結成したドラゴンサーチャーも脱退した監督は生活の糧に悩んだ末、再びヒーローものの制作に戻ります。

ヒーロー大好きの外山さんの「好き」は度を超えており、熱意のおもむくままに「オモチャキッド」の制作に着手しました。一時期、収入源としていた占いや、プライベートでの探検などを通じ、テレビ局に顔見知りの多かった外山さんは2004年〜2006年まで2年間、鹿児島のテレビ局MBC南日本放送で5分番組の「オモチャキッド」を放送することとなりました。

人気は徐々に上がり、地元の大型ショッピングモールでキャラクターのショーを開く機会もあったとのことです。この「オモチャキッド」が、後に誕生する「薩摩剣士隼人」につながっていくのです。

35歳で気づいた鹿児島

きっかけは、滋賀県彦根市のキャラクター「ひこにゃん」を見たときだったと外山さんは語ります。

ひこにゃんによる滋賀県観光産業の潤いを知り、もともと多くの観光資源や食材、郷土料理に恵まれた鹿児島を地元とする外山監督にとって、彦根市の成功は大きなきっかけになったとのことです。

「僕らがやらなくちゃいけないんだ!僕たちがこの鹿児島をPRするキャラクターを開発しなくてはならないんだ!」

という熱意がこみ上げてきた、35歳当時の気持ちを、監督は絞り出すような声で語り始めました。
ここから、薩摩剣士隼人の話がついに始まります。

ここまで、取材を開始してから50分。あまりにも贅沢な情報の数々、監督の協力姿勢には心から感謝です。

視聴者層の分析

ビジネスの経験がほぼ無かったという外山さんは、営業をしたいと希望する人物と知り合い、一緒にスポンサーを回ったと言います。

薩摩剣士隼人の制作にあたり参考にしたのが、沖縄のヒーロー、超人マブヤーでした。ヒーローと怪人が多くを占めるマブヤーの構成は、視聴者として未就学児の男の子しか期待できないと判断した監督は、男女や年齢を超えて楽しく見てもらうため、ゆるキャラ、アイドル、たくさんのキャラを登場させることにします。

アンパンマン」的な世界を目指したから、とのことでした。
それが、マーケティングの広がりに繋がると外山さんは考えたのです。

たとえば仮面ライダーの歌ならAvexが入っていますが、疲れているときに、特に年齢的に、そのテンションの歌を聴きたくないお年寄りの存在をも心配したとのことでした。

その壁をクリアするためにも、薩摩剣士隼人の主題歌はお年寄りでも楽しめる「水戸黄門」的なものを目指したのだそうです。

薩摩剣士隼人の主人公「隼人」の特徴の一つとして、

「相手の剣には自分の剣を当てるが、相手の体に当てたことは一回もない」

ことを掲げ、戦いは相手を倒すことを目的とするのではなく、剣と剣をぶつけて分かり合おうとしているのだ、との主旨を語られました。

鹿児島に古くからある剣の流派、「示現流」とは逆を行くものです。
外山さんが作品を通じて使いたかったテーマは、「敬天愛人」とのこと。

「薩摩剣士隼人」というブランドを手にした監督は、この商機を活用して鹿児島を紹介するなど、話はまだまだ続きました。

次回は、その営業活動とともに、隼人について話す前に監督が打ち明けた、児童養護施設での経験や、決心に至った子どもたちの現実の姿などを、もう一度ふりかえってご紹介する予定です。

取材後編はこちら>>
「薩摩剣士隼人」外山雄大監督、鹿児島のヒーローを作った男への取材記録(3)

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