コミュニケーション」という言葉が、頻繁に聞かれるようになりました。
「コミュニケーションを積極的にとりましょう」という、時代の趨勢があります。

コミュニケーションの重要性自体は高く、確かにそのとおりだと思います。
でも、最近の私たちは本当に正しい意味でコミュニケーションをとれているのでしょうか。

最近では、どのような場でも人は人と接する機会を豊富に持つようになりました。
そしてそれは、直接・間接を問いません。
スマートフォンパソコンの向こうには、いつでもたくさんの人が待っています。

私たちは本来、本当にそんな状態を望んでいたのでしょうか。

今のこの状態が、人を幸福にしているのかどうかということについては、はなはだ疑問でしかありません。

単にたくさん喋ること

言われてみれば確かにその通りだと、多くの人は当たり前だ今さら言われなくても分かる、と答えるでしょう。
コミュニケーションとは、単にたくさんしゃべることではありませんね。

言葉の多さは、コミュニケーションをとっていることの判断基準にはなりません。

大事なのは「本当に意思疎通できているかどうか」ということです。
なるべくしゃべらない方が伝わるなら、それに越したことはないのです。

それにしても、「意思疎通」というものは人間にとってどの程度可能なのでしょう。
100の思いが、どの程度の言葉を尽くせば、結果的にどれだけ正しく相手に伝わるのでしょう。

コミュニケーション “communication” の本来の意味

コミュニケーションの本来の意味は「共有」です。

意思を共有するために、その手段として私たちは言葉を使います。

しゃべることそのものが目的ではありません。
たくさんしゃべっても、意思を共有できなければ意味はないのです。

では、最も共有しなければならないものとは、いったい何なのでしょうか。

まず優先して知っておかなければならないことは「私たちはどこまでいっても結局分かり合えないという事実」だと思います。

このことが共有できていれば、誤解や無駄な争いなどは、最初から避けられます。
伝えて共有しなければならないということへの切実さが増すでしょう。

無駄な言葉は省けるし、足りない言葉を補うことができます。
一つひとつの言葉が、真剣味を帯びてくるはずです。

みんなが幸せになるためのコミュニケーション

ここ数年、その手段が増えたことを一つの要因とする、コミュニケーションの失敗を理由とした意味のない不幸が多すぎます。

人を攻撃したり傷つけたりすることを目的に、それに相応しい本当に攻撃的な言葉を意図的に発する機会って、私たちの間で現実にはどのくらいあるのでしょう。

人を傷つけることは非生産的だし、疲れるし無駄です。

単なる理解の相違、国際間であれば翻訳上のミス、共有の意図を欠いた一方的な言葉の応酬が招く誤解などを理由に、私たちは個人的に恨み合い、傷つけ合い、離れていきます。

集団であればそこに内紛やテロが発生し、国であれば戦争をします。
コミュニケーション全盛時代の今、私たちは意味もなく自爆していませんか。

互いに理解し合い友好的な関係を築くために、コミュニケーションはとられます。

でも、私たちは欲をかきすぎました。
分かり合えないことにも、理解を深める必要がありました。

分からないことを無くそうとするのではなく、分からないことに対しても思いやりをかけるべきだと思うのです。

(ぼくたち、この部分は理解し合えないけど、それはそれで「共に有り」ということにしていこうよ)。

私もインターネットのヘビーユーザーで、動画サイトやインターネットメディアが大好きです。
書き込みできるコメント欄がだいたいあって、たくさんの人が意見を残していきます。

こんな無法地帯、どれだけ酷い言葉が飛び交うんだろうと、思いますよね。
たまにそうなるんですが、みなさん礼儀正しく節度ある態度で罵倒しあっています。

私も余計なことを書き込んで、頻繁に罵倒されます。
赤の他人が律儀に批判してくれて、その意見が理に適っているのです。

それだから私は感心してしまい、部屋のなかでひとり、声を出して笑ってしまうのです。

「コミュニケーション」は「伝達」ではない──語源から分かる本当の意味 | 小さな組織の未来学今回は「コミュニケーション」という言葉について、あらためて考えてみたい。この語源をご存知だろうか。「日本人はコミュニケーションが苦手だ」「もうちょっとコミュニケーションを良くしたい」など、何気なく日常的に用いている言葉だ…www.nikkeibp.co.jp

via:小さな組織の未来学