不登校。そして保健室登校。
このような言葉は近年よく聞くもので、珍しくはない。
私も高校時代は、メンタル的な問題から学校にほとんど通うことが出来ず「不登校」の状態であった。
それに対し「甘えている」だとか「理解ができない」という気持ちを抱く人は、きっと今でもいるだろう。
しかし、当事者からすれば、そこには説明のつかない苦しみがあって、それでも自身の肩書きが学生である以上、学校から逃れることも簡単には出来ないのだ。
この記事は、そのような現実も踏まえて、少しでも多くの人が穏やかな学校生活を送れることを願って書くものである。
私の居場所はどこ?
人間関係のトラブルや、勉強面の悩みなど、きっかけは様々なものがあるだろうが、不登校に陥って一番に訪れる苦しみといえば「自身の居場所を見失う」ことであるだろうと私は思う。
そもそも、学生の居場所は学校であって、その学校に行くことが出来なくなるのだから、結果的にそういった苦しみを感じてしまうのは当たり前のことだ。
そうして、家にひきこもりがちになったり、学校に行くことが出来ても耐え切れずに保健室などに駆け込み、教室に行くこともままならなくなってくる。
私の場合は、保健室に行くことも不可能で、心の教室という、いわゆるカウンセリングルームの休憩室で横になっていることが多かった。
そこには、常駐の先生が1人いるだけで、担任の先生やクラスメイトが訪ねてくることはほとんどない。
そのときの心情としては教室に行けないのだから今、こうして居るのだが、そこに私が居ることを認めてくれる人はおらず「ここは、自分が居ることを許してくれる場所だ」と感じることは出来ずに、1人、孤独感を感じるばかりだった。
不登校問題の闇
ちなみにこれは、私が高校生で不登校を体験したための話であるが、高校は小学校、中学校と違って義務教育ではない。
つまり、学校に行って授業に出なければもちろん留年するし、卒業をすることも不可能なのだ。
そのような事態を避けるための選択肢として、今通っている学校を辞めて通信制の高校に編入したり、高等学校卒業程度認定試験を受けるというような道がある。
私は結局、単位を取るために最低限の授業には出て、ギリギリのラインで高校卒業資格を獲得した。
それは、ただ卒業をするための「作業」であって、誰か友人を作って学校生活の思い出を作ることはない。
今思えば、全日制であった高校を辞めて、通信制の高校への編入や、高認試験の受験を考えても良かったのかもしれないが、私はその道を選ばなかった。
決断を急いではいけないと思いながら、どこか心の片隅で「誰かが私を助けてくれるかもしれない」「もしかしたら、今に何かが変わって楽しい高校生活が送れるかもしれない」といった淡い期待を抱いていたのかもしれない。
そして、そういった気持ちを感じるのはきっと、高校で不登校問題に直面している人ばかりではなく、小学生、中学生にもいえることであるだろう。
小さなことから始まる、救いの道。
今、まさに学校に行くことが出来ないという事態を体験している人は、思うようにいかない日々を苦しみ、孤独を感じてしまうはずである。
それを過去に体感した私の願いとしては、周囲の人が本人に、深い孤独感を感じさせないように配慮をしてくれることだ。
不登校に悩む本人は、もちろん不登校になりたくてなったわけではないし、もしかすると抱えきれないほどの苦しみを抱いているかもしれない。
そのような状態にある中で、心を閉ざしがちになっている可能性も考えられるが、それでもそんな本人を見守り続けることをやめないでほしい。
学校に再び通うことが出来るようになったり、状況の改善が見られることは難しいが、本人も周囲からの気持ちが全く分からなくなっていることは決してないのだ。
むしろ、逆に敏感になっているだろうとも言える。
自然な形でその存在を受容することが、深い苦しみを抱え、心を痛めている本人の傷を癒すための一番の薬になるだろう。