今の社会、学校とは切っても切り離せない問題として、不登校がある。
必ず、学内に1人は居るであろう。
学校が始まった当初は元気に笑っていたのに、ある日突然、ぱったりと学校に来なくなる。クラスメイトからしたら、学校に通うということは自分たちにとっては「当たり前」のことなのに、どうしてあいつは来ないのだろうか。
親からしてもそうだ。子どもが学校へ行くことは「当たり前」のことなのに、どうして我が子は行かないのだろう。
「当たり前」に相反している行動に、周囲は戸惑いを感じるはずだ。
そうして、
「学校に来い」だとか「学校に行け」といったような言葉が、不登校である本人に降りかかる。
私は、高校時代不登校だった。
1年生の春。
始まったばかりの生活に適応しようとする中で、クラス内での不和があった。
滑り出しからぎくしゃくしてしまった人間関係。
それでも勉強はしないといけないし、おまけに私は生徒会役員になっていて、仕事も山のようにあった。
そうしてそれは突然やってくる。
ある日ふと、
「明日、私は学校に行けないのかもしれない」
と思った。そう思った次の日から、私は全く学校へ行くことが出来なくなった。
先に結論を言ってしまうと、
あの時の私は心身ともに疲れ果ててしまっていたのであろう。
不登校には様々な原因があると思うが、全ての根底にあるのは、心や身体のエネルギーの枯渇なのではないだろうか。
例えば、
部活や勉強が出来なくて、必死に努力をした。
クラスに馴染めなくて、やりづらさを感じながらも登校した。
不登校は怠けだと言う人もいるが、私が思うに、不登校になった人は不登校になるその直前まで必死に生きていたはずだ。
そうして今も、学校に行けない自分を抱え込んで生きている。
学校に行かないというのは、最後のSOSなのだと私は思うのだ。
それに対して、学校へ行くことを強要するのは、エネルギーがなくなってしまっている本人を更にすり減らしていってしまう。そうして、負のループにはまってしまうだろう。
もしも友人が、我が子が、不登校になったら、本人が安心して休むことが出来るような居場所を作っていくことが必要だと私は思う。エネルギーを貯める為の充電期間も必要だ。それは「止まっている」ように見えるかもしれないが、むしろ無理やりに学校に行き、自分をすり減らしてしまうことこそが後退なのではないか。
冒頭で、学校へ行くことが「当たり前」だと書いた。
しかし必ずしも、「再び学校に行けるようになること」がゴールではないはずだ。
本人が心から笑い、生活できるような日々を取り戻し、明るい将来へ向けて進んでいくこと。それが何よりも大切なことで、それが一番の幸せなのではないかと私は思う。