ツイッターに上がった、ある中学生の書いた作文の一節が話題になりました。

「アフリカの子どもたちが学校に行けるようにクラスで空き缶を集めるのはみんな熱心なのに、学校に来ない同級生についてはそうでもないのは、なぜなんだろう?」といった内容のものです。

ここで1編の詩をご紹介します。

遠くのできごとに
ひとはやさしい

近くのできごとに
人はだまりこむ

遠くのできごとに
人はうつくしく怒る

近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる

– 石川逸子「風」より(抜粋)

 

上に引用した詩は、ツイッターへの返信として紹介されていたものです。

中学生の作文にも石川逸子の詩にも、思い当たるフシがあるのは私だけではないと思います。

自分が危険にさらされる

身近のできごとについて、人はその発言に慎重になるものです。

正義の味方になることで、自分が批判を受ける側に立つ危険性があるから。

引きこもって学校に行けない子どもが、今では社会を構成する要素の一つとして認識されるようになりました。

原因はいじめだったり、成績だったり、親を原因とした家庭環境だったり、教員との関係だったり、さまざまあると思います。

そのなかでも最大の原因は、学校なら「いじめ」ではないでしょうか。

いじめの構造も複雑化し、その種類も多種多様にわたります。

子どもたちの間でも、身近な問題に関与することへの危険性は察知されています。

いじめを批判することは簡単ですが、批判が必ずしも解決に向かう行為だとは限りません。

引きこもることに対しても、同じく批判すれば良いというものではありません。

つまり、どのように行動することが正解なのか、大人も子どもも分かっていないのです。

いじめられている生徒を目にして、多くの生徒がいじめが止めばいいのに、と本音では思っていることでしょう。

いじめている生徒に対し、大半の生徒は批判的な気持ちを抱えながら黙っているのだと思います。

そんな、発言も行動も慎重にならなければならない環境にあって「いじめを見ないふりする行為もいじめ」だと定義することも可哀想な理屈だと思います。

それは、いじめられっ子を量産するだけです。

そうしたら数が逆転して、百姓一揆のようにいじめっ子に復讐できるのかもしれない、とは思いませんが。

引きこもりの子どもを無理に連れ出せばいいというものでもありませんが、年をとってから連れ出すのでは遅い、ということも確かです。

解答は、簡単に出るものではないのです。

お金は出すけど引き取るのは嫌、関わりたくない

アフリカの貧しい子どもたちに募金、という慈善事業があります。

受け取る側にとっては少しでもプラスになるし、少なくとも害にはならないのだから、やっていけないことではないでしょう。

確かに、募金してまとまったお金を集めることは、貧困地域に一定の事業を起こすきっかけになると思います。

金額の大小はありますが、よほどお金に困っていないのであれば、硬貨を箱に投げ込む募金自体は比較的お手軽です。

一方、日本は難民を受け入れることに極めて慎重な国として世界的に有名です。

災難が遠く海外で起こっていることであれば問題にしやすくても、同じ地域の住民として受け入れることには反対という、多くの日本人の本音を批判することも、簡単にできることではありません。

意図的に他人を傷つける行為は論外として、自分の身の安全を守るために結果として他人の危険を無視せざるを得ないことを批判する権利は誰にもないからです。

ではどうやって、準備する暇もなく立て続けにやってくる社会の中での「判断」という試練の嵐に、私たちは正しい答えを出し続けることができるのでしょう。

自分で考えて判断したことが自分にとっての正解

アフリカの子どもを助けることも学校に来ない同級生を助けないことも、それが自分で考えて自分で判断して決めたことなら、それが自分にとっての正解です。

他人がどのように批判しようと関係ありません。

しかし、客観的な正しい判断を自分で決められるようになるには、たくさん失敗して自分が痛い目にあう必要があります。

もちろん、成功して成功体験を重ねる必要もあります。

そのなかで、善悪のチューニングを自分で少しづつ合わせていかなければなりません。

肝心なことは、「自分で決める」ということ。

どんなことでもやたら相談ばかりすることには、賛成しません。

自分自身は少ししか鍛えられないからです。スポーツのトレーニングに似ていますね。

 

いじめという問題にきっちりかたを付けるなら、法律を整備することでしょう。

微に入り細を穿ち、詳細なところまで徹底的に法整備して罰則を科すのです。

しかし、すべてのことを法律でしか律することができない社会は、もはや破綻していると言えるでしょう。

法律でさえ私たちの心が決めることですから、自分を律する最低限の道徳心が私たちから失われてしまえば、秩序は乱れていく一方です。

「アフリカの子どもたちが学校に行けるようにクラスで空き缶を集めるのはみんな熱心なのに、学校に来ない同級生についてはそうでもないのは、なぜなんだろう?」という質問には、すぐに答えを出さないほうがいいような気がします。

この問題は、学校があるかぎり大人や子どもなどの区分を外し、天気の話でもするように永遠に話題にのぼるテーマなればいいのにと思います。

そして、インターネットで遠隔地から授業を受けることができるようになった今でも、毎日わざわざ校舎に向かって学校に通うことに楽しみを見つけられるとすれば、その理由は、「人は人を求める」という本能なのだろうと思います。

そのような非効率的な部分があるから、人間にはまだ互いに救い合う可能性が残っていると、私は期待を持たずにはいられないのです。

「なんでアフリカの子どもは助けようとするのに学校に来ない同級生は助けないの?」中学生が書いた作文が話題に – …まとめました。 更新日:2月12日21時29分togetter.com

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