「静かな島での、最初の1歩」
姫路港からフェリーに揺られて約30分。 エンジン音がゆっくりと弱まり、重い低音が体に響かなくなっていく。 相沢恒一が船の甲板(かんぱん)に出ると、どこか甘く湿った潮風が、真っ先に彼の頬を撫でた。
見上げた空は、雲ひとつない突き抜けるような青空だった。
燦燦(さんさん)と降り注ぐ太陽の光が眩しくて、恒一は思わず手で日差しを遮り、少しだけ眉をひそめた。
「クァー、クァー」
見上げれば、数羽のカモメが白い翼を広げ、きらめく海の上をそれぞれ気持ち良さそうに
飛んでいる。
「……本当に、ここに来ちゃったんだな」
コンクリートの団地やマンションが整然と立ち並ぶ、あの千葉の灰色の街では、1度も嗅いだことのない磯の香りが混じった、でもどこか軽くて優しい空気だった。
そして、視線を落とすと、目の前に港町が広がっていた。
キラキラと光る水面には、丸や四角の木枠で組まれた養殖のいけすがいくつも浮かび、ゆらゆらと波に揺れている。船着き場では、朝の漁を終えた漁船が何隻も並び、波に揺られて静かに船体を寄せ合っている。巻き上げられた緑色の漁網や、年季の入った浮きが、ここが海の街なのだと教えてくれる。
船着き場の近くには、潮風で少し錆びた軽トラックがぽつぽつと停まっていた。
行き交う人影はまばらで、流れる時間までどこかのんびりとしているようだった。
『まもなく、当船は着岸いたします——お忘れ物のないようにお願いいたします——』
静かな港に、船内アナウンスが響き渡る。
やがて、大きな鉄のスロープがギギギと音を立てて、ゆっくりと降り始め、ゴォン、と音と同時に接岸する鈍い音が響く。
それが、恒一の新しい人生の始まりを告げる合図のようだった。
「……着いた」
小さくため息をつき、恒一は歩き出した。2階の甲板(かんぱん)から、1階へ向けて階段を下りていく。背中には、ぎっしりと教科書が詰まった重いスクールバッグ。左手で持つキャリーケースの上には、ボストンバッグとトートバッグが無理やり括りつけられていた。階段を下りるたびに荷物の重みで身体が持っていかれそうになり、恒一は1段ずつ、慎重に足元を確認しながら手すりを頼りに階段を下りていく。
「お兄ちゃん、大丈夫か? 重そうやな、半分持ったるわ!」
ひやりと汗をかきながら耐えていた恒一の横から、作業服を着たベテランそうな船員のおじさんが声をかけてきた。断る間もなく、キャリーケースのハンドルからすっと手を添えて荷物を持ち上げてくれる。
「あ、すみません……ありがとうございます」
「ええよええよ、段差気をつけてな」
船員さんの手助けのおかげで、なんとか無事に1階へと辿り着くことができた。お礼を言って荷物を受け取ると同時に、船員の案内とともに船の大きな扉が開いた。
ガタガタとエンジン音を響かせながら、年季の入った軽トラックが1台、2台と、慣れた様子でスロープを渡って島へと降りていく。車が通過するのを待ってから、恒一も不格好な荷物を引いて歩き出した。 ガラガラと静かな港に異物を混ぜ込むような音を立てながら、スロープを下りていく。
「……ここで本当に、やり直せるのかな、俺」
ため息と一緒に漏れ出たその問いに、答えをくれる人は誰もいない。そもそも、今すぐ答えなんて出るはずもなかった。
恒一はポケットからスマホを取り出し、画面に表示された時間を確認してから、地図アプリを立ち上げた。画面に映し出されたのは、広々とした瀬戸内海と、そこに浮かぶ「家島」の全体図だった。恒一はスマホの画面を指でなぞり、地図をぐっと拡大していく。
港から入り組んだ路地をたどった先に、これから自分が暮らすことになるアパートの位置が赤いピンで示されていた。
「……えっと、とりあえずここか」
画面上のルート案内に目をやると、『徒歩20分』と出ていた。
荷物は重いが、歩けない距離じゃない。
――たぶん。
港を離れると、すぐに古くからの家々が身を寄せ合うように建ち並ぶ住宅街に入った。
潮風にさらされた木造の家屋や、鉢植えの花が可愛らしく並ぶ玄関先。都会のような慌ただしさはどこにもなく、そこにはゆったりとした時間が流れていた。
走る車の音も、ごくたまに細い路地を通り過ぎる軽トラ。それ以外は、自転車やシニアカーくらいでどこか穏やかだ。耳を澄ませば、吹き抜ける風や波の音に混じって、軒先で誰かが交わす話し声や、遠くの港から威勢のいい掛け声がかすかに聞こえてくる。
人っこひとりいないわけではない。けれど、千葉のあの騒々しさに慣れきっていた恒一にとっては、街全体を包むそののどかな空気すらも、どこか心もとなかった。
「……静かすぎるな」
あまりにゆったりとした時間の流れに戸惑い、思わず不安が口をついて出る。
スマホの地図アプリを頼りに進んでいくものの、恒一はすぐに足を止めてしまった。
この島はとにかく分かれ道が多く、どれも似たような細い路地ばかりなのだ。あちこち迷いながら歩いているうちに、ふと気づくと、目の前に大きな石の鳥居が立っていた。
「……絶対ちがうよな、ここ」
画面と目の前の鳥居を見比べて、小さくため息をつく。完璧に道を間違えたらしい。けれど、引き返そうと一歩下がったとき、ふと境内(けいだい)の静かな空気が目にとまった。
(……まあ、ついでだし)
恒一は重い荷物を鳥居の脇にそっと置き、境内の奥へと歩を進めた。
古びた賽銭箱の前で立ち止まり、ポケットを探って取り出した10円玉をひとつ、投げ入れるとカラン、と寂しげな音が響いた。2度お辞儀をして、胸の前で2回、パチパチと手を合わせる。静かに目を閉じ、恒一は心の中で呟いた。
(……どうか、ここで普通に暮らせますように)
大層な願い事ではない。ただ、誰にも怯えずに生きていきたいという、ささやかな祈りだった。軽くお辞儀をしてから鳥居まで戻り、恒一は再び重い荷物を持ち上げた。神社を出て、来た道を引き返す。
また細い路地に入るが、入り組んだ道のせいで、すぐに方向が分からなくなってしまった。
(……完全に迷ったな)
困り果てて立ち尽くしていると、向こうから電動車いす(セニアカー)に乗った80代くらいのおじいさんがゆっくりと近づいてきた。恒一は意を決して、少し声を張り上げる。
「あの、すみません……」
一瞬、じろっと鋭い目つきで見られ、恒一は思わずびくっと身構えた。
だが次の瞬間、おじいさんは破顔し、優しく声をかけてくれた。
「ああ? どないしたんや、お兄ちゃん」
柔らかい関西弁だった。
その言葉を聞いた瞬間、自分は本当に千葉から遠く離れた知らない土地に来たのだと、改めて実感する。
「えっと……この場所に行きたいんですけど、分かりますか?」
恒一がスマホの画面で目的地のアパートを示してみせると、おじいさんは目を細めて画面を覗き込んだ。
「あー、ここか。この地図だとこの道になっとるけど、ここからやと遠回りやで」
地図アプリのルートをさらっと否定し、おじいさんは手招きするように指をさす。
「この道をまっすぐ行ってな、突き当たりを右に曲がったら、またすぐまっすぐや。あっちゃんがやってるお店の隣の建物やから」
「……あ、ありがとうございます!」
予想外の親切さに、恒一は頭を下げた。
「ええよええよ。気をつけてな。迷ったらまた誰かに聞きぃや」
カラカラと音を立ててセニアカーで去っていくおじいさんの後ろ姿を、恒一はどこか温かい気持ちで見送った。
「……親切な人だったな」
ぽつりと呟き、おじいさんに教えてもらった通りに路地をまっすぐ進む。角を曲がり、少し歩いたところで視界が開けた。
「あ……ここか」
目指していたのは、小さな2階建てのアパート「魚見荘(うおみそう)」。
勝手に木造の古い建物を想像していた恒一だったが、目の前にあるのは思っていたよりもずっと新しく、手入れの行き届いたアパートだった。
薄いクリーム色の外壁には汚れひとつなく、ベランダの手すりや階段の鉄骨もピカピカに塗り直されている。築年数は感じさせず、古びた嫌な暗さはどこにもない。
「……意外と、ちゃんとしてる」
1人で生活していくことへの緊張がほんの少しだけほぐれ、恒一は小さく胸を撫で下ろした。
さて、鍵はどうすればいいのだろう。
そう思いながらアパートの玄関前まで歩み寄ると、集合ポストの上の壁に、手書きの貼り紙がテープで留められているのが目に入った。
『鍵のお渡しや御用の方は、お隣(鳴海亭)へどうぞ!』
視線を横にスライドさせると、アパートのすぐ隣に一軒の小さなお店が建っていた。
木製の看板には、温もり感じる文字で『鳴海亭(なるみてい)』と彫られている。
恒一は重い荷物を引きずりながら店の前まで移動した。ガラス戸には『準備中』の札が掲げられていたが、意を決してガラガラと引き戸を開ける。
「すみません……」
店内は香ばしい出汁の匂いが漂っていた。奥に向かって声をかけると、パタパタと忙しない足音が近づいてくる。
「ごめんなさいね〜! 今、準備中なんですよーって……あら?」
奥の部屋から顔を出したのは、青い三角巾に青いエプロン姿の女性だった。
店のお客さんかと思ってやんわり断ろうとした彼女だったが、大量の荷物を抱えた恒一の姿を見ると、すぐにその表情をパッと明るい笑顔に変わった。
それと同時に、恒一は思わず息をのんだ。
母からは昔の仕事仲間と聞いていたので、勝手に母と同じくらいの年齢の女性を想像していたのだ。
けれど目の前に立っているのは、どう見ても20代前半にしか見えない、驚くほど綺麗な女性だった。
透き通るような肌に、キュッと上がった口角。若々しい見た目とは裏腹に、その身に纏う空気はどこか包み込むような温かさに満ちていて、溢れんばかりの母性を感じさせる。
(……うわ、すごい美人)
「……あの、俺。 あ、僕……相沢恒一と言います」
恒一が女性の容姿に見惚れながら、恒一が緊張で声が裏返りそうになりながら頭を下げる。
すると、女性は思いついたように、嬉しそうに手を叩いた。
「相沢……。あ! もしかして由紀さんの息子くん?」
「……あ、はい」
「やっぱり~! お母さんから話は聞いとるよ〜。遠いところからよう来たね! いや~……前に会ったときは、まだあんな小っちゃい赤ちゃんだったのにねぇ。大きくなってからに~!」
「あ、あの……!」
まく立てるような勢いのマシンガントークに圧倒され、恒一が思わずタジタジと声を挟むと、彼女は「あら、ごめんごめん!」と悪びれずにコロコロと笑った。
「ウチは、大家の鳴海亜希子(なるみ あきこ)です。隣のアパートの管理人と、この定食屋もやっとるからね。よろしくね、恒一くん!」
太陽みたいな眩しい笑顔に、ハキハキとした明るい関西弁。
実年齢は38歳だということを恒一が知るのはもう少し先の話だが、彼女の放つ柔らかい雰囲気に触れ、恒一の緊張していた心は、さらにふわりとほぐれていくのだった。
「よろしくお願いします」
「ほな、鍵持ってくるから、ちょっと待っといてな!」
亜希子さんはパタパタと軽快な足音を立てて店の奥へと引っ込んでいった。その背中をぽかんと見送る。
(……近いな)
初対面のはずなのに、ずっと昔から知っている親戚のおばちゃん。いや、お姉さんのような距離感だ。
都会の人間関係に慣れきった恒一にとって、その距離の詰め方は本来なら警戒してしまうものだった。けれど、彼女の開放的な明るさのせいか、不思議と不快な気持ちにはならなかった。
「お待たせ! 鍵、あったわ。じゃあ、部屋まで案内するね!」
奥から戻ってきた亜希子さんは、恒一の大きな荷物を見るやいなや「重そうやね、半分持つよ」と迷わずボストンバッグを奪うように持ち上げた。
「あ、大丈夫です、自分で持てますから……!」
慌てる恒一をよそに、亜希子さんは「ええからええから!」と笑いながら、外へ出てアパートの階段をトントンと手際よく上っていく。
アパートは少し傾斜地に建てられているのか、正面の階段を数段上がった先が、1階の各部屋へと続く共用通路になっていた。
「ここが恒一くんの部屋ね」
通路の一番奥、102号室と書かれたプレートの前で亜希子さんが立ち止まる。
「はい、これ。102号室の鍵な」
チャラッと音を立てて、渡された鍵を受け取る。
「ありがとうございます、鳴海さん」
「あはは、鳴海さんなんて堅苦しいなぁ、亜希子でええよ。困ったことあったら隣の食堂におるから、何でもすぐ言ってね」
「……あ、はい。えっと……亜希子さん」
恒一はぺこりと小さく頭を下げた。すると、亜希子は、悪戯(いたずら)っぽく片目をくしゃっと細め、恒一の顔を覗き込んでひとこと。
「あ、『何でも』って言ったけど……いくら年上好きでも、えっちなお願いはダメだからね?」
「――っ!?」
不意打ちの一言に、恒一は頭の中で鐘が鳴ったかのように固まった。
思考が完全にフリーズし、カッと顔に血が上っていくのが自分でも分かる。耳の先まで真っ赤にしながら、口を金魚のようにパクパクと開閉させることしかできない。
そんな恒一のウブなリアクションがツボに入ったのか、亜希子は「あはは、ごめんごめん! からかいすぎた!」とお腹を抱えて弾けるように笑った。
「じゃ、荷解き頑張ってね!」
満足そうに明るく手を振り、トントンと軽快な足音を立てて階段を下りていく彼女の背中を、恒一は赤面したまましばらく呆然と見送っていた。
それ以上、深い踏み込んだ質問や会話はなかった。
からかわれはしたものの、余計な過去を根ほり葉ほり聞いてこない彼女の「過剰に干渉してこない優しさ」が、今の恒一にとっては、どこか救いのように心地よかった。
鍵を差し込み、カチャリと小さな音を立ててドアを開ける。
足を踏み入れた先は、どこか懐かしい匂いのする小さな和室だった。 玄関を入ってすぐの狭いキッチンスペースを抜けると、奥に6畳ほどの和室が1枚。部屋の隅には小さな押し入れと備え付けの木製棚があり、真ん中にはポツンと丸いちゃぶ台が置かれている。 1人で暮らすには十分すぎる、シンプルで無駄のない間取りだった。
靴を脱ぎ、重い荷物を玄関に置く。部屋の奥へと進むと、突き当たりにある掃き出し窓へ近づき、鍵を外してサッシをスライドさせた。ガラガラと音を立てて窓を開けると、心地よい潮風が部屋中に吹き込んできた。 ベランダに出て見下ろすと、住宅街の屋根の隙間から、先ほど降り立った港と、陽の光を浴びてキラキラと輝く瀬戸内海が一望できた。遠くでカモメが鳴き、船が波を立てて進んでいくのが見える。
「……すごいな。海、丸見えだ……」
ぽつりと呟く。
千葉の狭い空と灰色の団地の中では、感じたことのない圧倒的な開放感。 静かではあるけれど、その静けさは――決して冷たくも、嫌なものでもなかった。
そんな感覚に浸っていると、ポケットの中でスマホがけたたましくブブブと震えた。
ポケット取り出して画面を見ると、ディスプレイに踊っていたのは、母からの着信履歴。それも【10件】以上。
「……うわ」
思わず、苦笑が漏れる。
「心配しすぎだろ、ほんと……」
ため息をつきつつ通話ボタンを押すと、ワンコールも挟まない勢いで電話が繋がった。
『恒一!? 無事なの!? 大丈夫!? もう港には着いたの!?』
スピーカー越しでも耳が痛いほどの必死な声。けれどそのなりふり構わない勢いに、恒一の肩の力がすっと抜けていく。
「うん、さっき着いたよ。今、部屋の中」
『ほんと!? ちゃんと鍵開けて入れた?』
「子供じゃないんだから、大丈夫だって。途中で、迷っちゃったけど、おじいさんに道教えてもらったし……大家さんもすごく親切な人だったよ」
少しだけ笑いながら答えると、電話の向こうで母が大きく胸を撫で下ろす気配が伝わってきた。
『そう……よかったぁ……』
それだけで、母の切迫した声はすーっと穏やかなトーンへと変わった。心底安堵したのが痛いほど伝わってくる。
「……心配かけてごめん。これから荷解きするから、切るね」
『うん、分かったわ。ご飯もしっかり食べるのよ? じゃあね、恒一』
「うん。」
ブツッと通話が切れ、部屋に再び静寂が戻る。
画面が暗くなったスマホを耳元から離すと、恒一は「まったく……心配性だな、母さんは」とぽつり呟いた。呆れつつも、その過保護さに少しだけ救われた自分がいる。
(明日から、いよいよ新しい高校生活か……。本当に俺、うまくやっていけるのかな)
押し寄せてくる少しの不安を振り払うように、恒一は小さく首を振った。
「よし、やるか」
パンッ、と自分の両頬を叩いて気合いを入れた――その瞬間。ぐぅぅ、と間抜けな音が静かな部屋に響き渡った。思わず自分のお腹を押さえ、恒一は苦笑する。緊張がほぐれた途端、猛烈な空腹が襲ってきたらしい。
「作業を始める前に、まずは腹ごなしだ。」
恒一はトートバッグのポケットから、フェリーに乗る前、予め姫路港の売店で買っておいた菓子パンを取り出した。袋を破り、パサついたパンをかじる。 素朴な甘さが広がると同時に、お腹も心も少し落ち着いた気がした。
「ご馳走様。よし、今度こそやるか」
パンを完食して指先を払うと、恒一は早速、部屋の真ん中に置いた大きなスーツケースを引き寄せ、パチンとロックを外して荷物を広げ始めた。
中身は、今日と明日をしのぐための最低限の衣類と日用品。残りの大きな荷物は後日、宅急便で届く予定になっている。
キャリーケースから服を取り出し、備え付けの棚へ順番にしまっていく。 続いて、重いスクールバッグからは教科書やノート、文房具を取り出して棚の引き出しへ。ボストンバッグとトートバッグからは、洗面用具や予備のタオル、充電器といったこまごました生活用品を取り出し、ちゃぶ台や棚の定位置へと並べていった。
単純で、黙々とした作業。 それでも、散らばっていた荷物が収まっていくにつれ、自分の居場所を少しずつ作っているような実感が湧いてきた。
すべての荷物を出し終え、空になったバッグ類を部屋の隅にまとめると、恒一はそのまま畳の上へ「バタン」と大の字に倒れ込んだ。い草の青く香ばしい匂いが鼻の奥をくすぐる。移動の疲れと緊張が一気に抜け、重くなった体を畳に委ねながら天井を見上げていると、猛烈な手持ち無沙汰さに包まれた。
「暇だなぁ……」
畳の上で大の字になったまま、ふと、ポケットからスマホを取り出して画面を点灯させた。
表示された時刻は、午後16時。
「……まだ、ぜんぜん時間あるな」
ぽつりと漏らし、画面上で明日から通う高校のアプリ画面を開く。目的地までのルートは、もうしっかり保存してある。
「やることないし…ちょっと、下見に行ってみるか」
行く理由は、これといってなかった。 けれど、このまま狭い部屋で1人、明日への不安に押し潰されそうになっているよりは、体を動かしていた方がずっといい気がした。
スマホをポケットに押し込み、部屋を出てカチャリと鍵を閉める。
アパートの共用通路を歩き出すと、ふわりと心地よい潮の匂いが鼻の奥をくすぐった。まだ馴染みのない匂いのはずなのに、さっき船を降りたときよりはほんの少しだけ、身体にすんなりと馴染む気がする。
知らない道。 知らない町。
けれど、先ほどおじいさんに道順を教えてもらったおかげか、不思議ともう迷う気はしなかった。
「……まあ、焦らずゆっくり行こう」
自分に言い聞かせるように呟き、恒一は一歩を踏み出す。その足取りはどこか軽やかで、自然と明日から通う高校の方向へと向かっていた。
そして、恒一はこの時、まだ知る由もなかった。
この小さな島で始まるはずだった「静かで穏やかな日常」が、 もうまもなく、たった1人の少女との出会いによってあっさりと破られることになるのを。

