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パブリック・サーバントを「公僕」と訳した夏目漱石のすごさ

Chiyoda, Tokyo, Japan: Japanese National Diet Building: The National Diet Building is the building where both houses of the National Diet of Japan meet.

漱石の「公僕」という訳語は、 現代の行政言語が失ってしまった公共性への、百年越しの批判

日本のニュースを見ていると、「公務員」という言葉が当然のように使われています。 しかし、その語を耳にするたびに、私はどこかで薄い苛立ちを覚えます。 行政の説明は曖昧で、責任主体は霧散し、公共性はどこかへ蒸発してしまう。 「公務員」という語が、いつの間にか“市民の上に立つ側の言葉”として定着してしまったからです。

そんな現状を見ていると、私はどうしても思い出してしまうのです。 パブリック・サーバントを「公僕」と訳した夏目漱石の、あの圧倒的な鋭さを。

漱石の訳語は、現代の行政言語が徹底的に失ってしまった“公共性の緊張感”を、たった二文字で突きつけています。 そして、その緊張感を嫌がって「公務員」という語だけが生き残った現状こそ、私たちの公共語の貧困を象徴しているように思えてなりません。

「パブリック・サーバント」は“市民の下に立つ”という思想である

public servant は、民主主義の根幹をなす概念です。 公務員は市民の主人ではなく、市民のために働く者である。 この思想が前提にあります。

しかし日本では、この思想がどこかでねじれました。 行政は市民の上に立ち、説明責任は曖昧になり、 「お上」という前近代的な感覚が、いまだに公共空間を支配している。

つまり、 民主主義の言語が、前近代の精神に負けている ということです。

漱石は百年以上前に、このねじれを見抜いていました。

 漱石の「公僕」は、現代の行政が最も嫌がる言葉である

漱石が選んだ「公僕」という語は、現代の行政が最も避けたがる言葉です。

●「僕」=しもべ

この語は、上下関係を明確に示します。 つまり、 公務員は市民の“下”に位置づけられるべき存在である ということを、漱石はあえて突きつけたのです。

現代の行政がこの語を嫌うのは当然です。 「説明する側」ではなく、 「説明していただく側」だと認めなければならないからです。

しかし、現実はどうでしょうか。 行政は説明を避け、責任をぼかし、主語を消し、 「市民に仕える者」という原点から遠ざかる一方です。

漱石の「公僕」は、そんな現代行政への痛烈なカウンターパンチです。

「公務員」という語は、公共性を曖昧にする

現代の「公務員」という語には、

むしろ、 “公の側に属する人” というニュアンスが強くなり、市民との距離は広がるばかりです。

語が変わると、意識も変わる。 そして意識が変わると、公共性は静かに後退していく。

「公務員」という語は、 公共性の後退を覆い隠すための、便利な中性語 になってしまったのです。

言葉が変わると、社会の構造が変わる

私は、言葉は社会の構造を映す鏡だと思っています。 そして同時に、社会の構造をつくる力も持っています。

漱石の「公僕」は、 公共語としての明確さと、民主主義の責任構造 をたった二文字で示した言葉でした。

しかし現代では、

その結果、 「公務員」は“市民の上に立つ存在”として扱われ、 「公僕」という語が持っていた公共性の緊張感は失われてしまいました。

これは単なる語の変化ではありません。 公共性の敗北です。

まとめ:漱石の訳語は、現代の行政言語への百年越しの批判である

漱石の「公僕」という訳語は、 現代の行政言語が失ってしまった公共性への、百年越しの批判 として読むべきものだと思います。

そして、私たちが公共語を取り戻すためのヒントは、 すでに漱石の言葉の中に埋め込まれているのです。

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