2026/9/10:フリーペーパーvol.126発刊!

潮風と方言と、心の距離‐part1‐(プロローグ)

「静かに壊れていった日々」

東京で働く人たちのベッドタウンとして作られた、千葉県の外れにある静かな住宅街。
夕方になると、たくさんの窓がきれいに並ぶ大きな団地や、四角い一戸建ての家々から、どこからか夕飯の匂いが漂ってくる。新しくLEDに変わったばかりの街灯が、ぽつぽつと道を照らし始める。
道端には、ニュータウンができた頃からある小さな公園。少し色あせたブランコと、塗装の剥げた滑り台がポツンと置かれている。
遠くの大きな道路からは、トラックが走る音がかすかに響いてくる。

そんな住宅街の一角に、まわりの建物よりも少し築年数の古いマンションが建っている。
その3階の角部屋が、相沢恒一(あいざわ こういち)の家だった。

特別、裕福なわけではない。かといって、特別に不幸なわけでもない。
恒一は、そんなごく普通の毎日を送っていた。

——少なくとも、最初だけは。

まずは、幼稚園の時代に遡る。あの頃の僕は活発ではなかった。

「こうちゃん、今日は何して遊ぶ?」

柔らかな声が、幼い恒一の耳に届く。 まだ5歳くらいだった頃、母はいつも優しかった。休日になると、決まって近所の公園へ連れて行ってくれた。 他の子どもたちが鬼ごっこをして走り回る中、1人で砂場に座り、黙々と山や城を作っているような子どもだったけれど、母の前でだけは素直に、笑顔になれた。

小さな手で砂を積み上げながら、恒一は呟く。

「……できた!」

「え? もう?」

母が隣にしゃがみ込む。

「見て見て、お城」

「わぁ……すごい。こうちゃん、上手だねぇ」

「ほんと?」

「ほんとほんと。お母さん、びっくりしちゃった!こうちゃんは、デザイナーさんになれるかもねー」

「ぼく、でざいなーさんになる!」

「そっか、こうちゃん頑張って!」

「うん!」

優しく頭を撫でてくれる、母の手の温もり。 その瞬間だけで、幼い恒一の胸は温かく満たされていた。褒めてもらえること。笑ってもらえること。それだけで十分だった。

そんな穏やかな記憶の中にも、ぽっかりと欠けているものが1つだけあった。

それは、父親の存在だ。

恒一にとって、父親は「家族」というよりも、たまに家にやってくる「不機嫌で怖い大人」だった。父親が家にいる日のリビングは、いつもピリピリとした重い空気が流れていて、恒一は怒鳴られないように、静かに息を潜めているしかなかった。

母は言い訳をするように「お父さんはね、お仕事がすごく忙しくて大変なの」といつも言っていた。けれど、現実は違った。 夜遅く、ガチャンと乱暴に玄関のドアが開く音。 ズシン、ズシンという重い足音。 それと一緒に、ツンと鼻を突くようなお酒とタバコの匂いが漂っている。

「おい、飯は。風呂は沸いてんのか」

低く不機嫌な声が響くと、母は慌てて「今すぐ準備するわね」とキッチンへ。そんな日は決まって、夜中に壁の向こうから、父と母が言い争う声が聞こえてくるのだった。 時には、何日も家に帰ってこないこともあった。父親のいない数日間だけが、恒一と母にとって、本当の意味で心が休まる時間だった。

ある夜。夜中になっても父親が帰らず、母がじっと時計を見つめているのを見て、恒一は眠そうな目を擦りながら尋ねた。

「お母さん……お父さん、今日も帰ってこないの?」

母は一瞬だけピクッと肩を揺らし、言葉を止めた。その横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。

「……うん。お仕事、とっても忙しいのよ…」

いつもの言い訳。

「そっか。お父さん、お仕事がんばってるんだね」

恒一が純粋にそう言うと、母は無理やり口元を上げて、不自然な笑顔を作った。

「そう…ね。だから、こうちゃんは何も気にしなくていいの。もう遅いから、お布団に入ろうね」

そう言って恒一の手を握る母の手は、少しだけ震えていた。 笑っているのに、どこか泣いているような、苦しそうな母の顔。

けれど、まだ幼かった恒一には、その笑顔の裏にある本当の意味がどうしても分からなかった。

小学校へ上がっても、恒一のそんな「物静かで大人しい性格」が変わることはなかった。

クラスの真ん中で騒ぐタイプではなく、いつも自分の席や、教室の隅で静かに本を読んでいるような子どもだった。休み時間が始まって、周りの男子たちが「おい、サッカーしようぜ!」と一斉に教室を飛び出していっても、恒一はその渦に加わろうとはしなかった。

だからといって、誰かからいじめられたり、嫌われたりしているわけではありませんでした。 ただ、圧倒的に「印象が薄い」のだ。

ある日の休み時間、教室の後ろから、クラスメイトたちのこんな話し声が聞こえてきたことがありました。

「なぁ、次の班決め、あと一人誰にする?」

「うーん…あ、相沢は?」

「相沢かぁ。あいつ、優しいから誰とでも組んでくれるけど、なんか影薄いよな。喋ってるとこあんまり見たことないし」

「あはは、わかる。いるかいないか分かんない時あるよな」

悪気のない、けれど核心を突いた軽い陰口。恒一はそれを聞きながらも、傷ついた素振りすら見せず、ただ静かに本のページをめくっていた。

恒一は、誰に対しても親切だった。誰かが落とした消しゴムを拾ってあげれば、「あ、相沢ありがと」と言われる。 隣の席の子が教科書を忘れて困っていれば、そっと机をくっつけて見せてあげる。「助かったわ、サンキュー」と言われる。

でも、関係はいつもそこまでで、 「ありがとう」の先にある、「今日、放課後うちでゲームしない?」という言葉に繋がることは、一度もなかった。

学校が終われば、他の子どもたちが賑やかにグループを作って下校する中、恒一はいつも1人で靴箱へ向かう。

「相沢、バイバイ、また明日ね」

「…うん、また明日」

そんな短い挨拶を交わすだけで、一緒に帰る友達は誰ひとりいなかった。

ランドセルを背負い、1人きりで歩く帰り道。寂しくないと言えば嘘になるが、恒一の足取りは決して重くはなかった。

(おうちに帰れば、お母さんが待っているから)

ただいま、と言えば、いつだって笑顔で迎えてくれる優しい母がいる。 当時の恒一にとっては、それだけで、自分の世界は十分に満たされていた。

だが、恒一が小学校5年生になる頃には、家の空気はさらに重く、息苦しいものへと変わっていった。

父親が家に帰る日はさらに減り、たまに早く帰ってきても、競馬の新聞を睨みつけながら無言で出ていってしまう。食卓には、ただ重苦しい沈黙だけが流れるようになった。パチンコや競馬といったギャンブルに溺れた父親は、生活費にまで手を出していたのだ。

そして、ある夜。恒一は薄い壁越しに、両親の決定的な会話を聞いてしまった。

「……もう、生活費すらないのよ。今月の家賃、どうするの?」

母の震える声。

「うるせぇな! 分かってんだよ!」

父親の怒鳴り声が響き、恒一の肩がビクリと震えた。

「競馬で一発当てりゃ、すぐ倍にして取り返せるんだよ! グチグチ言うんじゃねぇ!」

ガンッ!!

壁に何かを叩きつける激しい音が響く。 怖くなった恒一が、自分の部屋のドアを少しだけ開けてリビングを覗き込むと、テーブルの上には見慣れない封筒が散らばっていた。 そこには、赤くて太い文字で『督促状』『未払い』と書かれている。

父親はイライラした様子で頭を掻きむしり、母は床にパタパタと涙を落としながら、唇を噛んでいた。

「……お願いだから、もうギャンブルはやめて……」

「黙れ!! お前はすっこんでろ!」

容赦のない怒鳴り声に、恒一は恐怖で心臓が跳ね上がり、反射的にドアを閉めた。

胸が苦しくて、涙が出そうになる。 布団の中に潜り込み、耳を強く塞いでも、壁越しに聞こえる怒鳴り声と母の泣き声はいつまでも止まらなかった。

それが「ギャンブルによる借金」という、家庭を壊していく底なしの沼なのだと、当時の恒一はまだ知る由もなかった。

中学生になる頃には、隠そうとしても、家の異変は近所や学校にまで漏れ聞こえるようになっていた。噂は、どこからともなく広がっていく。

ある日の昼休み。 恒一がいつものように自席で教科書を読んでいると、教室の後ろから数人の男子がニヤニヤしながら近づいてきた。

「なぁ、相沢」

「……何?」

教科書をめくる恒一の手が、ピクリと止まる。嫌な予感が胸を締め付ける。

「お前んち、借金まみれってマジ? もしかして夜逃げの準備とかしてんの?」

「……知らない」

冷たい汗が背中を伝う。一刻も早くこの場から消え去りたかった。

「えー、隠さなくてもいいじゃん。親父さん、相当なギャンブル狂いなんだろ?」

クスクスと周囲から忍び笑いが漏れる。

「別に……関係ない」

声を絞り出すのがやっとだった。 ここで怒ったり、必死に否定したりしても意味はない。むしろ躍起になればなるほど、彼らは調子に乗って面白がるだけだ。恒一はただ、感情のスイッチをオフにして嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

「なぁ、お前に頼めば、ちょっとは金貸してくれんの? 借金取りのあしらい方とか、プロだろ?」

「あはは、それな!」

ゲラゲラと下品な笑い声が教室に響く。 彼らにとっては、退屈な日常を埋めるためだけの、ただの悪ノリ。 けれど、その無神経な言葉の刃は、確実に恒一の心をズタズタに切り裂いていった。

家に戻れば両親の喧嘩、学校に来れば変な目で見られる。 どこにも安心できる居場所なんてない。誰かと話すたび、胸の奥に黒い棘が深く刺さっていく。 いつしか恒一は、人前で笑うという感情の動かし方を、完全に忘れてしまっていた。

そして、中学3年の冬。 その日は、不気味なほど家の中が静まり返っていた。

ギャンブルに狂った父親が家に帰らなくなって、丸1週間。 リビングには、誰も見ていないテレビの音だけが虚しく響いていて、テーブルを挟んで向かい合って座る母が、消え入りそうな声で口を開いた。

「……恒一」

「……なに、母さん」

母は、テーブルの上に静かに1枚の紙を滑らせてきた。 差し出された母の手は、小さく震えている。そこに印刷された「離婚届」という文字を、恒一は感情の消えた瞳でぼんやりと見つめた。

「……これって」

「……離婚することになったの。お父さんとは、もう終わりにする」

母の声は、驚くほど静かだった。 泣いてはいなかったが、その顔は生気を失い、泥のように疲れ切っている。

「……あいつは?」

父親のことを、もう「お父さん」と呼ぶ気にはなれなかった。しばらく重苦しい沈黙が流れたあと、母はぽつりと言った。

「……もう、ここには来ないわ。どこか遠くへ行ったの」

その瞬間、恒一の頭の中で何かが「プツン」と切れる音がした。 悲しみはなかった。ただ、すべてが完全に終わったのだという、冷え切った納得だけがあった。

父親は消えた。しかし、彼が残していった「借金の噂」や「冷え切った空気」は、この街にこびりついたままだ。 翌日、学校へ行くと、すでに事情を知ったクラスメイトたちが遠巻きにヒソヒソと囁き合っていた。

「やっぱ父親、借金から逃げたんだって」

「うわ、マジかよ。夜逃げじゃん」

「かわいそーに……」

向けられるのは、哀れみと、嘲笑と、下世話な好奇心。 そのすべてが、恒一には吐き気がするほど苦しかった。教室に座っていても、自分だけが色のない透明人間になってしまったかのような錯覚に陥る。誰も本気で心配して近づいてはこないし、恒一自身もまた、これ以上傷つかないために周囲のすべてを拒絶していた。

毎朝、目が覚めるたびに泥のような絶望が襲ってくる。

(いっそ、このまま消えてしまいたい)

そう願うのに、ビルから飛び降りるような勇気すら自分にはない。そんな自分の弱さが、心底嫌いだった。

そんなある日の夜。食卓には、どこか静かで穏やかな時間が流れていた。 並んでいるのは、スーパーで買ってきた半額の惣菜。蛍光灯の白い光が、二人の影を寒々しく照らしている。

そんな中、母が静かに切り出した。

「……ねぇ、恒一。お母さん、考えたんだけど……」

「……考えたって、何を?」

「お母さん、小さい頃に家島(いえじま)に1年くらい住んでたって言ってたでしょ?」

「……うん」

家島――それは、兵庫県の姫路港から南西の沖合に浮かぶ、自然豊かな島のことだ。母の口から何度も聞いたことがあった。 けれど、なぜ今その名前が出てくるのか分からず、恒一は箸を持ったまま動きを止める。

「あなたの生活拠点を、あの島に移そうと思うの」

「……え?」

思わぬ言葉に、恒一は思わず母の顔を見返した。

「それって……母さんも一緒に行くんだよね……?」

母は、小さく首を横に振った。寂しげな、けれど決意を秘めた目だった。

「ううん。母さんはここに残って、まだ残っている仕事と、片付けなきゃいけないことを全部終わらせる。だから……恒一、あなた1人で、先に向こうへ行ってほしいの」

「俺、1人で……?」

「1人暮らしになるけれど、今のこの街にいるより、絶対にあなたのためになると思うの。ここからはすごく遠いけれど……向こうの住む場所も手配してあるわ。あそこで、もう一度最初からやり直してみない?」

恒一は、黙り込んだ。 知ってはいるけれど、一度も行ったことのない見知らぬ土地。知らない学校。自分を誰も知らない人間たちの中に、たった一人で放り込まれる。 不安がないと言えば嘘になる。けれど――。

(この街には、もう僕の居場所なんてどこにもない。1人きりでも、この状況から抜け出せるなら……)

「……俺1人で大丈夫なのかな……。学校でも影薄いのに、誰も知らない場所で……1人でやっていけると思う……?」

絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。 母はハッとしたように目を細め、テーブル越しに身を乗り出して、恒一の手をそっと包み込んだ。 冷え切った恒一の手。けれど、重ねられた母の手は、驚くほど温かかった。その体温だけが、冷めきった世界の中で唯一の現実だった。

「大丈夫よ、恒一はしっかりしているから。向こうへ行けば、今度はきっと、あなたを助けてくれる優しい人たちに会える。お母さん、そう信じてるから」

母は力強く、言い聞かせるように頷いた。その言葉を、恒一はすぐには信じられなかった。 この世界に、自分を受け入れてくれる「優しい人間」なんて本当に存在するのだろうか。もしいたとしても、心を閉ざし、笑い方すら忘れてしまった自分に、そんな温かい手が差し伸べられるはずがないと思った。

でも、この灰色のベッドタウンで、他人の視線に怯えながらすり減っていく未来を選ぶよりは、1人きりで見知らぬ島へ渡るほうが、ずっとマシだと思えた。

長い沈黙のあと。恒一は、小さく息を吐き出した。

「……行くよ、俺」

母の瞳から、堪えていた涙がポロポロと溢れ落ちる。

「うん……! ありがとね、恒一……! 寂しい思いをさせて、本当にごめんね……」

窓の外では、冬の冷たい風がヒョウヒョウと吹き抜けていた。

まだ、何もわからない。 新しい土地で、たった1人の暮らしがどうなっていくのかも、どんな出会いがあるのかも。 いつかまた、心から笑える日が来るのかさえ、想像もつかない。

ただ、1つだけ確かなことがあった。 誰かと心から笑い合うための温もりを、恒一はまだ、失くしたままだった。

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