戦争とは
戦争は文明の失敗であり、倫理の崩壊である。だが、人間が倫理を手放さずにいる限り、平和の再生は可能であると信じたい。
戦争を国家権力の衝突としての暴力と捉えつつ、人道的兵器や「よい兵器」という概念の矛盾を倫理と技術の観点から批判的に考察する。戦争倫理学の三立場を整理しつつ、私は絶対平和主義を支持し、生命の尊重を最優先すべきだと主張する。さらに、啓蒙の弁証法を通じて理性が暴力へ転化する危険性を指摘し、批判的理性と倫理的想像力の育成によって希望を再構築し、戦争を超える文明の可能性を探している。
この文章は「啓蒙」とか「弁証法」とかをある程度理解している人に読んでもらおうと書きました。具体的には「啓蒙思想とその弁証法的批判(特にアドルノ、ホルクハイマーの議論)に一定の理解を持つ読者を想定しています。」理解が難しい人は解るところだけ、拾い読みして頂いて結構です。
ざっくり
戦争とは何か──国家権力の衝突としての暴力
戦争とは「国家権力」のぶつかり合いで、最も原始的かつ暴力的な紛争解決手段である。
一般的な意味では戦争とは、国家もしくはそれに準ずる集団が、何らかの政治的目的、たとえば領土拡張による資源獲得などで国家的利益を得ることや、攻めてくる可能性がある仮想敵国を先制的に叩くことなど、を目的に武力を行使し、戦闘を起こすことである。軍事力の行使を中心とすることが多いが、政治闘争、経済闘争、思想闘争、情報的闘争(情報戦、諜報戦)などさまざまな闘争も並行して繰り広げられるので、実際的に言うと、戦争というのは軍事力の行使に限ったことではない。
20世紀から情報戦・経済戦争・貿易戦争は行われていたが、21世紀にインターネットが普及するとネット経由でITインフラや金融システムやライフラインに対する攻撃、すなわち大砲やミサイルなどによる攻撃を伴わない国家間の争いが始まりサイバー戦争と呼ばれるようになり、一般市民にはあまり知られていないが、実はサイバー空間では国家間の闘争が日々行われている。
ここでは実際に兵器を使う戦争につい私見を述べる。
人道的な兵器?──倫理と技術の交差点
「核兵器は非人道的」と言われる背景には、単に殺傷力の強さだけでなく、無差別性・長期的被害・国際法上の問題などが含まれている。では逆に、「人道的な兵器」とは何か?
戦争という本質的に非人道的な行為の中でも、比較的『人道的』と見なされる兵器には、以下のような特徴があると考えられる。
・選択的な殺傷力:軍事目標のみを狙い、民間人への被害を最小限に抑える兵器(例:精密誘導兵器)
・即時的な影響のみ:使用後に長期的な環境汚染や健康被害を残さない兵器(例:通常弾薬)
・国際法に準拠:ジュネーブ条約などの国際人道法に違反しない兵器
・拷問や過剰な苦痛を与えない:人体に対して不必要な苦痛を与えない設計(例:禁止されている焼夷弾やナパーム、化学兵器とは対照的)
人道的な兵器という概念が矛盾している。が、ジュネーブ条約は戦争という極限状態の中でも「人間性を保つ」ことを目的としている。つまり、戦争が起きてしまったとしても、すべてが無秩序で残虐にならないよう、最低限の人道的ルールを定めている。そこには兵士や兵器開発者の倫理感が求められているのである。ジュネーブ条約は、戦争を美化するものではなく、「戦争の中でも人間性を守る最後の砦」として機能することが期待されている。
よい兵器?──抑止力と機能性の観点から
ここで視点を変えて、よい兵器とは何かを考えてみたい。
・精度が高い:目標を正確に攻撃し、誤爆や巻き添えを最小限に抑える。
・操作性が良い:兵士が安全かつ効率的に使用できる。
・自律性・柔軟性:AIや自律型システムによって、複雑な状況でも判断・対応が可能
・防御力・抑止力がある:攻撃だけでなく、敵の攻撃を防ぐ能力も含む。
機能的に優れた兵器としては以上のようになる。
また、抑止力という観点に限って言えば(使わないことを大前提に)核兵器は『究極』の抑止力といえる。冷戦期の米ソ間の「相互確証破壊(MAD)」は、核兵器の存在が全面戦争を防いだとされている評価もある。
戦争倫理学の三つの立場──絶対平和主義の擁護
さて、
戦争倫理学では
| 正戦論 | 一定の条件下で戦争は道徳的に許容されるとする立場。戦争開始の正当性と戦争遂行の正当性に分かれる。 | 
| 絶対平和主義 | いかなる理由でも戦争は道徳的に許されないとする立場。暴力の否定を根本原理とする。 | 
| 現実主義 | 戦争は国家の利益や生存のための手段であり、倫理は介在しないとする立場。国際政治の冷徹な力学を重視する。 | 
上記が戦争倫理学の理論の枠組みになるが、私は絶対平和主義を推したい。
倫理とは、「他者に対して、自分がしてほしいと思うように接するべきである」と言われる概念だが、戦場に於いてそれを実践するのは非常に難しいことは想像に難くない。
“”ウクライナ戦争をロシアに利する形で終わらせてはならない。何故ならば、「力による現状変更」を許容することになってしまい、世界に誤ったメッセージを伝えることになってしまうからだ“”という論調を見かける。
ウクライナ側に立てば、正戦論に傾きがちだが、戦争遂行の正当性という見地からは、どうだろうか?クルクス州(ロシア領)への攻撃は、戦争遂行の正当性に明らかに違反している。現在もウクライナ人兵士の命が失われつつあることに、如何に思いをはせるのだろうか?
ウクライナ政府が今なすべきことは、白旗を上げる事。それにより即座に戦闘を停止する事に尽きる。確かに国家主権や国際秩序の観点から異論はあるだろうが、倫理的に『生命の尊重』を最優先にすべきである。
啓蒙の弁証法───理性が野蛮に転化するとき
理性は、人間を自然から解放したかのように見えた。しかし、人間も自然の一部であることを逃れることはできず、科学・技術によってコントロールしようとしすぎたとき、人間の感情や欲望などの内なる自然が過剰に抑圧されたとき、自然は野蛮な反文明的現象として噴出し、啓蒙された文明は新しい野蛮に逆もどりする。それがファシズムや戦争の根底にあるとした。
啓蒙の本質は、人間と自然が一体であった世界から主-客を分離し、人間(主体)による自然(客体)の支配を行うことにある。
しかし、この人間による自然の支配は、やがて人間による人間自身の支配へと転化することになる。何故ならば、人間も自然の一部であることを免れない為。
「啓蒙の弁証法」は、この啓蒙が野蛮へと転化する弁証法的過程をさす。
理性は、人間を非合理性から解放する役割とは裏腹に、暴力的な画一化をもたらすことになる。
・理性による支配の拡大
自然を合理的に理解し、制御することが理性の目的だったが、それが人間社会にも適用され、人間同士の関係まで「効率」「合理性」「管理」によって支配されるようになる。
・多様性の排除
理性は「普遍的な法則」や「標準化」を求めるため、個人の感情・文化・価値観などの多様性が「ノイズ」として排除される。
・技術と官僚制の支配
科学技術や制度が理性によって設計されると、それが人間を管理する道具となり、個人は「システムの部品」として扱われる。
・感性や倫理の抑圧
感情や道徳的判断が「非合理」とされ、理性による計算や効率が優先されることで、人間性が失われていく。
結果として、人間は自由になるどころか、理性によって「同じように考え、同じように行動すること」を強いられる。
即ちそれが「暴力的な画一化」、つまり理性が生んだ秩序が、逆に人間を抑圧する構造になる。ナチズムやファシズムのような全体主義も、理性の名のもとに秩序と効率を追求した結果、非人間的な暴力へと転化したとされる。
理性が「自らの限界や支配性を自覚し、反省する」ことで、感性や倫理と融合した新しい理性――つまり批判的理性が可能になると考えられている。
ウクライナ、パレスチナなど、きな臭い話題に満ちている現代。せめて批判的理性の精神で行動したい。
希望の再構築───批判的理性と倫理的想像力
戦争の歴史は、暴力による問題解決の限界を何度も示してきた。にもかかわらず、国家や集団は「合理性」や「利益」の名のもとに武力を正当化してきた。しかし、希望は常に「非合理」な場所から芽吹く。たとえば、
・対話と共感の力:敵対する者同士が、互いの痛みや歴史を理解しようとする姿勢は、理性ではなく感性に根ざした希望。
・市民社会の覚醒:国家の論理に抗して、個人が声を上げることで、戦争を止める力が生まれる。これは倫理の再構築の第一歩。
・教育と記憶の継承:戦争の悲惨さを語り継ぐことは、暴力の再発を防ぐ「文化的ワクチン」となる。
再構築の方向性
・批判的理性の育成:理性が自己の支配性と自らの限界を認識し、他者の立場や感情(感受性)を受け入れる柔軟性を持つこと。
・倫理的想像力の回復:自分が経験していない苦しみを想像し、他者の尊厳を守る力を育てる。
・制度の人間化:官僚制や技術が人間を管理するのではなく、人間の幸福を支える仕組みとして設計されるべき。
結びに:戦争を超える文明へ
戦争は文明の失敗であり、倫理の崩壊である。しかし、そこから立ち上がる人間の姿にこそ、真の希望がある。理性と感性、効率と共感、力と対話 -それらを統合した新しい倫理が、戦争なき未来を築く礎となる。

