さぁ〜私、水上卓の洋楽の師匠とも言える、『マーサ三宅』先生をご紹介いたしましょう!
先ずもって、水道橋のたまり場の喫茶店で知り合った雑誌社の友人の紹介で、西永福にお住まいだったチベット仏教の大家宮家 潤先生のところにご相談に伺ったのがきっかけで、先生の妹であるマーサ三宅さんをご紹介戴いた。
マーサさんのことは、中学時代鹿児島のFMで『ある愛の詩』などを聞いていて、「随分丁寧な歌唱だなぁ〜」と存じ上げていたので是非にとお願いした。
私は、既にNHKでデビューしていたが、何か目指していた音楽の世界とは違っていた。マーサさんの中野の教室は音楽を感じるオアシスの様な場所で、早速通うことになった。
お金もなかったし、普通科、実践科、研究科と勉強させていただき、担当の先生方とも飲みに行ったり、楽しく歓談して青春の温かき一コマであった。
音楽に辿り着くまでのストーリー
マーサさんは満州から鹿児島、大阪を経て東京に居を構え、夜間、歌のアルバイトをしながら日本音楽学校を卒業。
当初、仕事上歌謡曲や色々な楽曲を歌われたが、東北のミュージシャンのアドバイスでJAZZを歌うようになり、日本のJAZZヴォーカル界を率いる大御所となった。
麹町の高級ナイトクラブ『マヌエラ』でピアニストの前田憲男氏やジョージ川口と腕を磨いた。
私も『三宅光子と東京キャナリーズ』のレコードから集め直して勉強させていただいた。
デビュー当時
マーサさんがデビューしてからも時代の影響か、JAZZのアルバムをリリースすることは難しく、そんな時シャンソンのレコーディングの話があったらしく、このシャンソンのアルバムがヒットした。『わたしはカモメ』珍しいシャンソンのナンバーである。彼女が若い時分、当時辛口のJAZZ評論家で名を馳せていた大橋 巨泉が、アイ・ジョージとマーサさんだけは褒めてくれたらしく、親切にしていたら、本人曰く懐いてきたとのことで、めでたく婚姻され二女をもうけられた。
マーサは歌ってゆくことを選択し、艱難辛苦あっただろうけれども、紫綬褒章・旭日小綬章を受ける大歌手と相成った。
油の乗り切った1973年『マーサ イン パースン』のアルバムから先ず、1曲お聴きいただきましょう。
「恋をしているようだ (Cover) (Live at エスパース ジロー, 東京, 1973)」
続いて、小生も大好きな曲『Who can I turn to』
フー キャン アイ ターン トゥ (Cover) (Live at エスパース ジロー, 東京, 1973)
たっぷりとした声量である。
マーサさんは、元々クラッシックの発声からシャンソンもこなす方なので、トーチソング的なバラードは大のお得意である。
ましてこの『マーサ イン パースン』の様な若かりし頃はリズムの切れ味も抜群である。
30thのアニバーサリーコンサート
中野サンプラザでストリングスのアンサンブル、LIVEレコーディング、歌手人生を省みて、その時々に寄り添ったJAZZ、クラッシック、歌謡曲、シャンソンなど時代の推移とともに歌われていった。丁度、コンサートの少し前に小生が『マーサ三宅ヴォーカルハウス』の発表会でスティービーワンダーのアルバム、『インナービジョン』から『All in love is fair』を歌い最優秀賞を戴いていた、先生もコンサート3曲目に同曲を歌ってくれた。受け入れてもらえて嬉しかった。
英語の発音が抜群
マーサさんのお母様がこれからの女性は自立していかなければならないといった教育方針だったらしく、当時としては珍しく英会話の家庭教師がついていたらしい。
英語の発音は抜群である。よく外国人のリスナーの評判がいいことを聞いたものである。
『マーサ三宅ヴォーカルハウス』で一緒に働いて4000人以上の生徒を育んだ、先生方のコーラスをバックにレイ・チャールズの『What a wonderful world』をお聞きいただきます。今陽子さん・大橋純子さん、古くはシャンソン界の重鎮 石井好子さんも『My funny valentine』習得しに来たという教室です。
最後に
今日は我が師匠『マーサ三宅』を紹介させていただいて嬉しく思います。
最後はマーサ イン パースンのエンディングからライブ臨場感たっぷりのお別れです。
歌は終りぬ~ホワット イズ・ゼア トゥ セイ (Cover) (Live at エスパース…
やっぱり素晴らしい歌手・師匠を持てて嬉しく思います。元気でね!マーサ。bye.