『ペイ・フォワード』映画
モテたいならアメリカンな台詞は使わない方がいい
アメリカンなものに憧れる。
たとえばアメリカ映画で天才数学者がいきなりガラステーブルに油性マーカーで数式を書き始めたり、朝起きたら鏡台に恋人からルージュでメモが残されていたりするシーンを見るとドキッとする。アメリカンだなぁと思う。
私はどうしても消すときのことを考えてしまい、間違ってもテーブルや壁に油性マーカーでメモを残すなんてできない。
だからこそそれができてしまう人物に憧れるし、それが絵になるのはアメリカンなものだと感じている(日本映画だとどうしても、「これ、あとで誰が消したのだろう」という邪念が混じってしまう)。
アメリカンなセリフ
アメリカンなものの中でも特に憧れているのが、アメリカンなセリフだ。
昔、女の子と『ペイ・フォワード』という映画を観ていたときに、登場人物の男が女性の飛び降り自殺を止めるシーンがあった。
「命を大切にしろよ」だとか、「残されたひとのことを考えろ」などが思いとどまらせるセリフの凡例だが、
男は彼女に、「コーヒー飲みに行きませんか」と言った。
私は、アメリカンだなぁ、と呟いた。
それからというもの、アメリカンなセリフに私のアンテナが反応するようになった。
「俺は吐いた唾は飲まねぇ、でもピーナッツバターが塗ってあったら別さ」とか、そういうものに。
そして最近、それはエスカレートし、私自身がアメリカンなセリフを言いたくなってきた。
でも、アメリカンなセリフはとても難しいのだ。
ーーある雨の日、窓際の席で、女の子と食事をとっている。
「ねぇ」と女の子が話しかけてくる。
「ねぇ窓の外を見て」
「ん?」と私
「ねぇ、どうしてあのひと傘をさしてないのかしら、こんな雨の中、手に傘を持っているのに」
「きっと前世が砂漠だったんだよ」
私は心の中でだけそう呟く。でも言えない。どうしても、言えないーー。
このエッセイで紹介した映画
『ペイ・フォワード』映画。ちなみに、本文最後の「きっと前世が砂漠だったんだよ」はアメリカのセリフではなく、歌人・木下龍也さんの、ある歌の下の句の最後をもじったものです。アメリカのセリフではないのですが、とても使いたくなる言い回しです。