まずは義務教育について
義務教育(ぎむきょういく、英: compulsory education)とは、国が国民に対して教育を受ける、受けさせることを義務付けることである[1]。アメリカ独立期やフランス革命期に形成された近代公教育思想に淵源を持っており、欧米では生存権の一環として教育を受ける権利運動が展開された[1]。日本では日本国憲法第26条が国民の教育を受ける権利(学習権)を定めており、これを保障するために教育を受けさせることが義務づけられる
【上記はWikipediaより引用しました】
日本国における義務教育については詳細で長いため以下の政府公式URLよりご覧ください。https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/004/a004_04.htm
夏へのジレンマ
夏が好きです。祭りがあって情緒があって解放的になれる季節。しかし私の好きな気持ちとは裏腹に、辛い出来事ばかりでした。例えば…2022年夏の悲劇は皆さん記憶に新しいでしょう。7月8日に偉大な人物を失ったこと。夏といえば私のある体験を綴ろうと決心しました。
以前の記事の中で何度か養父からの虐待について触れていましたが、その関連となります。
以降は体験ということもあり一人称の語り調となりますのでご理解よろしくお願いします。
タイトル回収
中学2年生の夏休み。思春期で最も楽しいであろう時期に、私は最も辛い経験をしていた。
皆がそれぞれ安心できる我が家に帰る方向とは真逆に私は独りで住んでる家に帰っていた。
なぜそういう状況になったのか?発端は、養父に対して恨みが極限まで達したことによる。
思春期の盛りの私は膂力で逆転して養父に馬乗りになり恨みのすべてを込めて殴っていた。
正直、殺意があった。だが、10歳下の兄妹たちがショックと悲しみの表情で眺めていた。
私がもっとも憎んでいる養父はその幼い兄妹たちにとっては愛情ある実の父親だからだ。
私は養父を憎みつつ兄妹たちは憎めず可愛がった。そんな愛情格差で狂わないだろうか?
兄妹をみて我に返った私は行き場のない激情のままに咆哮した。近所の通報で警察が来た。
事情聴取で何回も虐待を訴えたが、躾という大人たちの解釈だけでいつも済まされていた。
日本の永住権取得のために不都合なことを嫌う母は『うちの子はちょっと頭がおかしい』と伝えると警察は『では精神科へ連れていっては?』と提案したが、母は世間体を人一倍気にしていたので選択肢に絶対ないと全面否定。思い返すと滑稽なほどに矛盾していたのだ。
家庭内で解決するということになり警察は面倒そうに去って近所からは白い目で見られた。
結果
そして家庭内で話した結果…隔離・別居ということになったが、その対象者は私だった。
理由は家族にとって害になるとのこと。養父は今まで虐待に無抵抗だった私に対して恐れを抱いていた。思い出すと理不尽すぎて今でも怒りやら悲しみやら発作的になってしまうが、心の鞘にしまい綴っていこう。とにかく、独り暮らしということになれば住む場所は?となるが、うちは財産だけでいえば裕福だった。しかし、お小遣いや通学費すら貰えなかったので、親子間の貧困格差のようなテーマも抱えていたが…とりあえず別宅は用意されていた。
用意されていた別宅は実家から15キロほど離れていた場所で救いは最寄り駅が佐世保駅。
ただ、急な坂道に建っていた古民家で部屋の空間が斜めになっている造りが不快だった。
不安感でいっぱいだったが怒りでしか表現できない私を荷物と共に置き去りにしていった。
こうしてまさかの経験をすることになる中学2年生で初めての独り暮らしが始まったのだ。
それは蝉の鳴き声がひどく五月蝿かった記憶がある中学2年生の夏休み前の出来事だった。
学校
夏休み前なので通学しなければいけない。流石にその状況で親は通学費をケチることはしなかったが、当然ハードだった。まずは電車で佐世保駅からハウステンボス駅まで約30分乗車して、そこから中学校まで徒歩2時間(天候と体調によっては3時間)通学した。徒歩に関しては慣れている。通学費をもらえなかったので実家からは徒歩1時間で通っていた。不幸中の幸いだが私は読書家で本を読みながら歩いてたので苦ではなかったが周りからは同情されていた。
しかし問題は校区・学区だ。住んでいる場所が違うので別区となる中学校に通うことを問題視された。ルールの相違だけでなぜその状況に至ったかを学校側から聞かれなかった。唯一、女性担任である森本先生だけが事情を聞いてくれて便宜をはかってくれたおかげで同じ中学で通うことができた。だが部活動していたサッカーは親から辞めさせられてしまった。
私がサッカーを楽しんでいたことを知っていたサッカー仲間たちは昼休みに必ず『サッカーやろうぜ!』と誘ってくれた。雨の日でも笑いながら遊んでくれた。これは先のことだが、サッカー部の引退式に特別枠として招かれた。部活動を辞めてしまったあとの自分を最後まで見捨てずに仲間として接してくれた。どんなに理不尽な目に遭っても辛くても必ず通学した。自分にとって家族より大切な人たちが学校にいてくれたことが救いだったのだと思う。
過去から未来へ託す
当時は楽しい盛りの同級生にそんな深刻なことは話せないし公的機関も家庭介入に限界がある。
そしてなによりも、弱った中学2年生の語彙力で果たして家庭の悪環境を説明できただろうか?
当時はその惨状を伝える術がなかったのだから未来の自分から今さら伝えていいのではないか?
現在は虐待の実態をメディアやSNSを通して知ったり児童相談所の積極性など子どもに関して世間は注視しているが…しかし、あまりにも過敏すぎて肝心なところが隠れ蓑になり融通が効かないようなズレがある。警察もやはり家庭問題には不可侵だ。なので結局、子どもを腫れモノのように避けたり軽視している軸は変わっていないと感じる。
問題の根源が変わったことと変わっていないことを再認識するために、このような体験談は必要だろう。なぜなら、人はすぐに忘れてしまうから。その懸念が顕著に現れ始めているのが、高精度AIの登場だろう。人間に解決できなかった問題を、これからはAIが論理的かつ即座に解決してしまう。それにより人間の価値が薄まっていくのだ。
であれば、意を決して筆ならぬタイピングでこうして綴っていっているというわけだ。
流石のChatGPTでも私の体験まで解説できるはずもなく…そして苦難はさらに続く。
後編につづく
さて、ここまで主観的な語りとなりましたが終盤なので文調を戻すことにします。いかがでしたでしょうか?私の体験と共に私の考え方を添えてお伝えする形式となりました。口頭だと散文的になりがちなので記事として整理しつつ、背景などをまとめて伝える機会となって助かっています。ちなみに文中に実名の駅を入れたのは、現在であればGoogleマップなどで調べられますので私の体験をリアリティで知ることができるようにするためです。
思い出すと感情的なエネルギーにより疲弊するので区切りをつけるため前編としてここまでにします。この体験エピソードにはまだ続きがあります。私が体験してきたことは現在も起きている社会問題に当てはまるテーマばかりだったと我ながら実感しましたのでその気づきとなるように伝えたい所存です。
かの喜劇王シェイクスピアの名言のひとつに『悲しみは言葉にだせ』というのがあります。
言葉にだせば物語となります。そして教訓や心得として活かせば無駄にならないでしょう。
それでは、この体験の続きは後編にて。ここまで読んでいただきありがとうございました。