『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン/著
人生で出会ってよかったと思う人って誰ですか?
ホテルで働いているころ、言語学者で思想家でもあるノーム・チョムスキーの息子で、自身もマサチューセッチュ工科大学の教授であるおっちゃんと話す機会があった。
とはいっても、その胡散臭いおっちゃんがそう言っただけで、本当のところはわからない――彼は地毛が茶色であること、黒のコンタクトをしていること、チョムスキーとおぼしき老人と撮った写真があることをしきりにうったえてきたが、僕は今でも偽物ではないかと疑っている。 ホテルにはときどきとても変わったお客さんが宿泊に来るのだ――。
それはさておき、おっちゃんとは意外にも話が合った。僕はパッヘルベルのカノンについて話し、彼はモーツァルトが『魔笛』を17才の若さで書き上げてしまった苦悩について語った。
そしてこう聞いてきた。
「君はヴィドゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んだことがあるか?」
それはヴィドゲンシュタインが生前刊行した唯一の哲学書で、極度に凝縮されたそのスタイルと独創的な内容は、底知れぬ魅力と「危険」に満ちている。らしい本だった。
その本を読んだのは、こんな難しい本読んでる僕モテそうだぞ、というただのカッコつけだった。もちろん内容は理解できず、前半で諦めて放置していた。
でも僕はこう答えた。
「あるよ、なかなかに難しい本だったね」
彼が言う。
「この本が言いたかったことは何だ?」
僕は答えた。
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない」 と、本文に書いてあることをそのまま。
しかし僕はその文を格好いいと思いこそすれ、意味は理解していなかった。
すると彼はこう言った。
「それってつまり『カッコつけんな』ってことだな、この本の言いたいことはそれだ。わかんないことをわかったように振る舞うな、ということさ」
目からウロコだった。 途端に、「蓋然性」とか「アレゴリー」とか、意味もよくわかっていないくせに使っていた自分が恥ずかしくなった。
それ以降、僕は変に気取った言いかたをしなくなり、かっこつけで難しい本を読むのをやめた。
きっと彼はチョムスキーの息子ではなく、ただの変わったおっちゃんだったのだろう。そして彼が言った本の内容が本当に正しかったのかもわからない。でもそんなことはどうでもよかった。 僕の中ではこれ以上ない“答え”だった。
後日譚
おっちゃんはその後、無銭宿泊で警察を呼ばれかけていたが、僕は仕事に追われその場を離れていたので、彼がどうなったのかは知らない。
以来、彼とは1度も会っていない。
このエッセイで紹介した本
『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン/著